追 原
追原を歩く会 事務局長 北澤真理子
万葉の昔から、ことばには意志と力を持つ言霊(ことだま)があると言われてきた。所属する山の会の例会で、初めて追原に連れていってもらった時、私はなぜかその地名に惹かれ、それから幾度も追原を訪ねた。
黄和田畑の先のつり橋を渡れば、追原の入り口になる。ゆるやかな登りを行き、暗い檜(ひのき)の林を抜けると、鹿たちの水飲み場になっている小さな沢があり、原野に戻りかけた山のたんぼの向こう、竹林の先に追原がある。近くの集落から別れ住んだ一族の隠れ里。
その人達に追われた者のイメージを重ねるのは考え過ぎだろうか。
雑木林に埋もれかかっている茶畑。柿や梅や桜の木。彼らの暮らしの跡は、私にいろいろなことを想像させる。
山の恵みを大切に、自然と共生してきた山の暮らし方がそこにはある。春、追原を訪れれば、竹林の向こうに紫の桐の花が霞のように咲いて迎えてくれる。漏斗(ろうと)状のその花は、くるくるとまわりながら落ちて来て、濃厚な薫りを辺り一面に漂わせる。かつて、ここに女の子の誕生した年があったのか。幸せを願って植えられた桐の木の樹齢何年の年に、ここは廃村になったのか。
ここが玄関、ここが水屋。土台だけになった廃屋に、かつての暮らしが蘇る。きちんと横に並べられた数本の一升壜(びん)は、いつか人目に曝(さら)される日を予感してのことなのか。
竹薮の中には、江戸時代から昭和までの自然石の小さなお墓。山の神のほこらも傍(そば)に。
追原への道を辿る時、誰かが待っているような不思議な幸せな気持ちになる。私は少女の日の自分に会いたくて、つり橋を渡るのかも知れなかった。
廃村となった追原は、鳥や小さなけもの達の住みかとなった。筍(たけのこ)を採りにきた猪が眠った跡。コゲラの穴。獲物を探すサシバ。東大演習林の深い森に守られて、鳥もけものものびのびと生き営巣する。里山にいた鳥たちも、開発を逃れてやって来た。
ここにダムが出来るという。水の確保と治水のためだという。専門家に聞けば、その必要はないという。
私はここを守りたい。ふるさと房総の自然がすっかり壊されてしまった今、自然を守る最後の砦として追原を守って行きたい。自然と共に暮らす方法を、山の暮らしから学びたい。物言わぬ動物たちだって生きる権利があることを人間たちにわからせたい。
七里川を塞(せ)き止めるこのダムに、七里川ダムではなく追原ダムという名をつけた人は、私のように追原という地名に精神的に惹かれる何かを感じたのだろうか。それとも清流として知る人の多い七里川よりも、忘れ去られた追原の名を使うほうが反対も少ないという計算だったのか。ともあれ、計画では七里川は水没し、追原は樹齢数百年の大楓ともども抉(えぐ)りとられることになっているようだ。
追原ダムの計画を知り、追原を守る運動をはじめようと思った時、「個人の思い入れでいい所だから残したいだけじゃ運動にならない」といわれた。しかし私は、この追原に住むことばを持たないたくさんの生きものと、追原の自然を大切に守り育て、そして死んでいった人たちのかわりに、追原を見つめ、守る運動に関わっていきたいと思う。
ことばを持つものの責任として。
(1998年12月)
樹齢数百年の大楓
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