八ッ場ダムに翻弄された地権者の話

〜懐柔・分断策により反対運動が切り崩された〜

中山敏則



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 (2005年)11月、川原湯温泉(群馬県長野原町)で全国自然保護連合の総会が開かれました。
 この温泉は八ッ場(やんば)ダムが建設されれば水没してしまいます。総会のあと、ダムをめぐる地元の状況を地権者のAさんに話を聞きました。


■自民党に集団入党も

 Aさんは、八ッ場ダム反対運動などにかかわり、ダム建設をめぐる動きを53年間もまのあたりに眺めてきた地権者のひとりです。こんなことを話してくれました。

 「私の父は戦争にかりだされ、悲惨な経験をした。戦争が終わったら、こんどはダム計画がもちあがり、住みなれたところを追いだされることになった。だから、水没対象地住民といっしょにダム反対運動にたちあがった」

 「反対運動は猛烈だった。男たちは、昼も夜も会議、会議の連続だった。だから、家の仕事は女性がやっていた」

 「長野原町は、かつて、福田赳夫氏と中曽根康夫氏の選挙地盤だった。二人は仲が悪かった。はじめのうちは、福田氏がダム推進派で、中曽根氏は反対の立場だった。そこで、住民は中曽根氏を頼りにした。ところが、中曽根氏も、政権につくとダム推進派に変わった」

 「みんなが自民党に入党すれば、ダムを中止できるのではないかということで、ほとんどの家が自民党に集団入党した。私も入党するよう親からすすめられたが、それだけはかんべんしてほしいと言って断った」


■ダムの話をするのはイヤ!

 「運動の中で、ダム建設反対期成同盟の委員長が長野原町長に当選した。しかし、町長は、水没地以外の町民の要望も聞かなければならない。また、町長がダム反対の姿勢を貫いている間は、国や県が予算をくれなくなった。いわゆる“兵糧攻め”である。このため、町長もついに“犠牲を伴わないダムならいいのではないか”とか“ダム建設によって町が良くなるのなら仕方がない”ということを言いだし、ダム賛成に変わってしまった。群馬県知事も、八ッ場ダムの建設に消極的だった人物から、建設に積極的な人物に替えられてしまった」

 「いまは道路と鉄道のトンネル工事のため、平日は発破(はっぱ)が四六時中つづている。そのため、家がひびいたりして、難儀をしている。住民の3分の1は、すでに町から出ていった。川原湯温泉はかつて旅館が17軒あったが、すでに5軒が廃業し、12軒しか残っていない」

 「こんなおそろしいものはない。しかし、しかし地元住民は、“ダムはイヤだけど仕方がない”とあきらめている。みんなダムの話はしたがらない。“ダムの話をするのはイヤ!”という感じだ」


■現地再建方式なのに代替地はなかなかできない
  〜約束を破り続ける国交省〜

 「国交省は、2001年に住民と間で補償基準を調印する際、代替地をつくり現地再建方式にするので、“犠牲の伴わないダム建設”になると約束した。しかし、代替地の造成はなかなか進まない。それなのに、移転交渉をどんどん進めるので、結局は町から出ていかざるを得なくなっている」

 「できてもいない代替地の価格が発表されたが、非常に高い価格だ。とくに温泉街は3割増の高い価格となっている。そのため、移転補償費だけではやっていけず、かなりの借金をしないと旅館を経営できない。だから、いま残る旅館のうち、じっさいに代替地に移転できるのは5軒ぐらいとみられている」

 「国交省は代替地以外でも、つぎつぎと住民や地権者との約束を破っている。たとえば、水没地の補償費は、水没地以外の地域よりも高くよりもすると約束していたのに、隣の吾妻町の水没対象外の補償費は長野原町の水没補償費よりも高くなった。これには多くの地権者が内心で怒っているが、表だって怒りをだせない状況になっている」


■ダムはおそろしい
  〜反対運動のきりくずし、分断、懐柔はものすごかった〜

 「はじめのうちは、水没地住民は団結して猛烈なダム建設反対運動を展開した。しかし、国交省(当時は建設省)や政治家などによる反対運動のきりくずしや分断、懐柔はものすごかった。そのうちに、賛成派がだんだん増えていき、住民は、賛成派と反対派、条件付き賛成派の3派に分かれた。それぞれの間で、軋轢(あつれき)が生じ、争いもひんぱんに起こるようになった」

 「大地主や大きな旅館の経営者が賛成派に転じるようになると、“反対”を口にだしづらくなった。いまでも、心の中ではダムに反対という人がかなりいるが、それを口に出せる人は一人もいないといっても過言ではない。ほんとうにダムはおそろしい。権力の恐ろしさもイヤというほどあじわった」

 「はじめのころ、ダム建設反対期成同盟をつくって猛烈な反対運動を展開しはじめたとき、いろいろな団体から共闘や支援を申し入れがあった。しかし、成田空港反対闘争のように流血の惨事にはしたくないという思いがあり、外部の支援団体とはいっさい共闘しないという方針をたてた。いま思えば、それは誤りだったのではないかと思っている。地元住民だけで闘ったのでは、豊富な金力や強力な政治力を使っての懐柔策や分断策に負けてしまう」

 「八ッ場に関するマスコミの報道ぶりを長年にわたって見てきたが、総じて大本営発表だ。国交省などの発表や言い分をそのまま報じている。私たちの言い分や事実はなかなか報じてくれない」

 以上です。
 このほかにも、いろいろな話を聞きました。


■懐柔策としての自分史刊行

 印象的だったのは、あの手この手を使っての懐柔策でした。たとえば、国交省は、賛成派と反対派の中から大物(実力者)10人を選び、自分史を刊行するよう執拗(しつよう)に働きかけました。刊行の条件はこうです。
  • 発行部数はそれぞれ100冊とする。
  • 発行に要する費用は、100冊まではすべて国交省の外郭団体(社団法人「関東建設弘済会」)がもつ。
  • 全員にプロのゴーストライターがつき、執筆を補助する。
 こうして、10人が自分史を刊行しました。発行費用は600万円×10人分=6000万円でした。
 反対派だった人も、自分史の中でダム容認的な文章を書かざるをえなくなったそうです。
 ゴーストライターに頼らずにすべてを自力で書いたのはわずか1人だけだったそうです。また、自分史の中でダム反対の視点を貫いたのは2人だけだったそうです。
 自分史ができあがると、それぞれ1冊を本人に渡しただけで、あとは「関東建設弘済会」が保有しました。この本は地元の図書館や国会図書館にもおかれていないそうです。
 ちなみに、こうした発行費はすべてダム建設事業費に含まれ、首都圏の関係6都県の負担金に転化されているそうです。


■“ダム反対闘士”の真実
  〜『八ッ場ダムの闘い』の萩原氏〜

 話を聞いてショックだったのは、『八ッ場ダムの闘い』(岩波書店)を著した故・萩原好夫さんのことでした。萩原さんは、川原湯温泉でいちばんの有名旅館「養寿館」の経営者でした。この旅館は、若山牧水など多くの歌人・文人が利用した老舗旅館です。萩原さんは大地主でもありました。
 同書を岩波書店から刊行したことから、萩原さんはダム反対運動の英雄的な見方をされています。しかし、じっさいの話は大違いでした。
 条件付き賛成派のリーダー格だった萩原さんは、国交省や政治家などと裏交渉をすすめたり、カネを引き出させたりしていました。福田赳夫氏を通じて多額のカネを引き出し、草津温泉にホテルを建てたりもしたそうです。そして、2001年に補償基準が調印されると、「養寿館」は真っ先に廃業し、転出しました。
 こうした話は地元地権者の間ではよく知られていますが、ほかではほとんど知られていません。私も、この本を読んで、2000年に「養寿館」を訪れました。八ッ場ダム問題にかかわるようになったのはこれがきっかけです。Aさんの話を聞いて萩原氏のイメージがくつがえり、大ショックでした。しかし、勉強にもなりました。
 やはり、いろいろな人に話を聞いたり、多面的に見ないと、ほんとうの事実はわからないものです。
(2005年11月)





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