鬼泪山にまつわる伝説を読み解く

〜ヤマトタケル軍に敗れた阿久留王〜

千葉県自然保護連合 中山敏則



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鬼が泪(なみだ)を流して謝った
   〜鬼泪山の由来〜

 千葉県自然保護連合が開いた講演会「南房総の山砂採取をめぐる諸問題」(2009年4月18日)で、講師の宮則夫さん(鬼泪山の国有林を守る市民の会)はこんな話もしてくれました。
    《鬼泪山(きなだやま)にはマザー牧場もある。しかし、マザー牧場は有名だが、鬼泪山はあまり知られていない。伝説によれば、ヤマトタケル(日本武尊)が攻めてきて、鬼が泪(なみだ)を流して謝(あやま)ったので、「鬼泪山」という名がついたといわれている。「染川(そめがわ)」という名の川もあるが、その由来は、そのときに鬼が流した血で川が染まったので、「(血)染川」となったとされている。こういう伝説の存在を考えてみると、大和王権に抵抗した王権がこの地にあったのではないかと思われる。その王権が大和王権に支配されるのをよしとせずに戦ったのだと思う。》
 これは初耳であり、すごく興味深いものでした。


ヤマトタケルと戦った阿久留王

 調べたら、情報誌『月刊ぐるっと千葉』の2005年12月号もこの伝説をとりあげていました。記事のタイトルは「アクル王と九頭龍の謎を追え」です。
 こう書かれています。
    《その昔、鹿野山に棲(す)む阿久留(アクル)王と呼ばれる悪鬼が、上総一帯を支配していた。阿久留王は東征で上総に進軍した日本武尊(ヤマトタケル)と戦う。鹿野山山麓の鬼泪(きなだ)山で両軍は激しく争い、敗れた阿久留王は六手(むこ)の地で捕らえられ、殺される。日本武尊は阿久留が蘇(よみがえ)るのを恐れ、その体を八つ裂きして別々の場所に葬った。王の血で三日三晩にわたって赤く染まった川は血染川(現・染川)と呼ばれ、それが腐って海に注いだ地は血臭浦(ちぐさうら=現・千種海岸)と呼ばれるようになった。》


阿久留王を郷土の英雄として描いた小説

 露崎清美氏が阿久留王(あくるおう)の話を題材に小説を書いていることも知りました。文芸社発行の『阿久留王』です。同書では、阿久留王が縄文系先住民の指導者として侵略者ヤマトタケルと勇敢に戦います。阿久留王は郷土の英雄となっているのです。

 もちろん、これはあくまでも伝説であり、つくり話です。阿久留王もヤマトタケル(日本武尊)も実在の人物ではありません。

 宮則夫さんによれば、この伝説は、古代ではなく、江戸末期から明治初期にかけて創作されたのではないか、とのことです。

 しかし、私にとってはすごく興味深い伝説です。同書を読んで感服しました。
 どこに感服したかというと、ヤマト王権(大和朝廷=天皇を頂点とする政権)が先住民(縄文人)を征服した過程や方法がリアルに描かれているからです。

 何点かあげさせていただきます。


縄文時代は戦がなかった

 ご存じのように、2万年以上前から日本列島に住みついていたのは縄文人です。縄文人の暮らしぶりについて、同書はこう記しています。
    《この日本に縄文人が住んだのは、2万年以上前からと言われている。その縄文人は数万年間自然の一員として生きて来た。そこには自由、平等、人間愛を基盤とした平和が長い間続いていたのである。そんな環境で育った人々が、大らかで豊かな人間性を持ち、芸術性あふれた縄文文化を築いたのである。
     その結晶である縄文土器は、数千年の後世にまで影響力を持ち、昭和の芸術家・岡本太郎を生んだとも言われている。そんな社会が縄文人すなわち蝦夷の社会であったのである。 最近の文化財発掘調査から、縄文人も支配者がいたとされ、また、米も作っていたとの報告もある。しかし、弥生人と根本的に大きく違う点がある。それは、縄文遺跡からは戦の痕跡が発見されていないことである。多くの人間が社会を作る以上さまざまなことがある。その人間社会で数万年もの間、戦がなかったことはまさに驚きとしか言いようがない。》(露崎清美著『阿久留王』文芸社)
 阿久留王は、そうした縄文系の人物とされています。


ヤマト王権が先住民を征服

 やがて、大陸から一部の人たちが稲作と鉄器をもって渡来してきました。これによって日本の歴史は大きく変わりました。弥生時代へと移行したのです。
 たとえば、歴史家の小和田哲男氏(静岡大学教授)はこう述べています。
    《徐福とその一行だけに限らず、政治亡命や集団移住というレベルで考えれば、かなりの数の中国の人々が日本へ渡ってきたことが考えられ、在来の縄文人との混血によって、新しい弥生人が誕生していったのではないだろうか。》(小和田哲男『日本の歴史がわかる本─〔古代〜南北朝時代〕篇』知的生きかた文庫)


大和国家を樹立した王家は外来民族だった?

 ヤマト王権(大和国家)を樹立した王家も大陸からの渡来人だったという説があります。
    《大和国家を立てた王家が夫余系(外来民族)であるらしいことは、多くの現象で推定することができる。まず、大和国家は世襲の王室と貴族の政治体制である。そして、はじめのうち貴族の大半は土着の豪族だった。これは百済と新羅のばあいと似ている。(中略)
     畿内や関東の中期古墳から出る金冠や金銅製の馬具などが、南朝鮮の古墳から出土するそれらといかに同種のものであるか、王家か貴族の墳墓である高松塚の壁画がいかに朝鮮的な風俗であるか、各地の横穴古墳の壁に残っている線刻画の人物の服装がいかに朝鮮人風であるか、さらに、日本と朝鮮の神話にいかに共通性があるか、などを見るがよい。》(松本清張『清張通史(2)空白の世紀』講談社文庫)

    《最近、上田正昭が、奈良時代の文書を分析してみたら、300だか400だかの大和朝廷の貴族のうち、3分の1近いものが朝鮮人であったと書いている。かれらは帰化人になる。そうすると日本の支配階級の3分の1が朝鮮人であった。すでに奈良朝の、律令制の完成した時代においてそうだった。いわんや5世紀、6世紀はどうであったか。5世紀、6世紀は、国境観念とか、国という限界観念がまだ成立していなかった。そうすると九州から奈良地方にかけて、朝鮮人、日本人、あるいはもっと原住民、あるいは北方渡来民、南方渡来民、アイヌ人などが雑居していたのだと思う。
     国境観念が成り立つのは、おそらく、8世紀ぐらいであろう。それが確実になってくるのは9〜10世紀以降だ。そのころはじめて帰化するとか、帰順しないとかいう問題が起きる。 そうすると、それ以前に入り込んできた文化的な先進民族は、支配階級の中に入っていく。日本が、等質民族だとか、同一民族だといっても、これは古代史からしてあやしい。
     いわんやアイヌの側からすれば、和人(シャモ)というのは、アイヌがもともと住んでいた国を略奪し、暴行し、だまし、ちょうどアメリカインディアンを白人がだましながら略奪していったと同じように、日本人が略奪した国である、という主張になる。あるいはまた北方から、南方から渡来してきた民族が、原日本人と戦いながら形成してきた王権が、大和王権なのだという諸説もある。そうするとそもそものはじめから、天皇家による日本統一の幻想、その幻想の貴族版教科書である古事記、日本書紀などをふみ破ってしまう事実が、いくつも提出されてくる。》(色川大吉『歴史家の嘘と夢』朝日新聞社)


鉄器の伝来は集団間の戦いのはじまりであった

 鉄器の伝来は同時に、集団間による戦いのはじまりでもありました。
    《縄文時代から弥生時代への移りかわりのとき、鉄器もわが国に渡ってきた。このことも日本の歴史全体をみていく上では、きわめて画期的な意味をもつことであった。鉄器の登場によって、それまで主役だった石器は駆逐されていく。(中略) 鉄器の伝来としてもう一つ注目されるのは、鉄器を使った武器生産がはじまったことである。よく、「農耕とともに戦争がはじまった」といわれるが、それは農耕だけが原因ではなく、人間と人間が殺しあいをする武器が大量に生産されるようになったことも、大きな要因であったとみてまちがいない。(中略)
    「農耕とともに戦争がはじまった」といったが、別な表現をすると、「稲作のはじまりは集団間による戦いのはじまりだった」ということになる。》(小和田哲男著、前掲書)


最新武器を使って先住民を次々と征服

 そうした最新武器(鉄器を使った武器)を使い、先住民を次々と征服していったのが、ヤマト王権だったというのです。
 ようするに、これは、アメリカにおいて白人がインディアン(先住民)を征服していったのと同じです。銃という最新兵器を装備した白人が、たいした武器をもたなかったインディアンを次々と殺戮(さつりく)していった歴史と同じということです。
 露崎氏の『阿久留王』ではこう描かれています。
    《阿久留王たちの長い間の狩りの道具は石を加工したものだが、武器にもなった。石を加工したものが刀や斧であり矢の先であった。槍もそうである。鉄の武器は、彼のものたちとの戦いの中で初めて知った。そして、その威力をもである。
     しかし、今酋長たちが見た彼のものたちの姿は、武器で言えば今までの彼のものたちの武器とは比べものにならないほど恐ろしいものに見え、身にまとっている兜や鎧も見たことのない物だった。この姿だけでエゾの人の度胆を抜くに充分だった。酋長たちは、彼のものたちが今日にも襲ってくるのではないかと恐怖におびえていた。》

    《近代的軍備をしたタケル軍の前に、ほとんどの豪族は戦いの気概を失った。従うしかなかった。》

    《蝦夷軍もよく戦ったが、ヤマト軍の武器は凄まじかった。鉄の刀や槍は、蝦夷軍の狩りの武器では太刀打ちできなかった。さらに弓も凄かった。矢が人の体を突き抜けるのだ。 鉄の鎧は、蝦夷軍の武器を苦もなく跳ね返してしまった。タケル軍の前に、次々と蝦夷兵は倒れていくが、逃げる者は一人もいなかった。タケルも何人もの蝦夷兵を槍で倒し、全身返り血で真っ赤である。
     戦いは、蝦夷軍の凄まじいばかりの抵抗で半日もかかり、ようやく終わった。そこには蝦夷兵の死体が累々と横たわっていたが、タケル軍の犠牲も大きかった。民族の存亡をかけた、必死の人は強かったのである。》


先住民を東へ追いやった

 最後に、『阿久留王』ではこう記されています。
    《日本有史以来、ヤマト朝廷は蝦夷民に対し征服の道を歩んで来た。それに従わないものは討った。そこには、民族の尊厳を重んじる心など微塵もなかった。それを見抜いた阿久留王は、だから戦ったのである。》

    《「蝦夷」も「阿久留王」も「ヤマト人」がつけた名前である。「蝦夷」の名前が景行天皇によってつけられたことは『日本書記』の項で紹介した通りである。その名は蔑視の対象としての呼び方であり、それが千数百年以上の長きにわたり引きずるのだから、呼ばれた方にとってはいい迷惑である。蝦夷とは、現在の「アイヌ人」であり「縄文人」であった。(中略)  北九州や出雲に上陸した「弥生人」は、やがて「ヤマト人」と名を変え東へ東へと進攻していった。そこには、開拓すれば米の採れる湿地帯が無限に広がっていたのである。その湿地帯には葦が豊かな緑を作っていた。豊葦原の国である。しかし、それは数万年前から住んでいた「縄文人」の地でもあった。当然摩擦が起きる。しかし、後から移住して来た「弥生人」のほうが圧倒的に力があった。「ヤマト人」は、「縄文人」を「蝦夷」と呼び蔑視、東へ東へと追いやったのである。
     しかし、その攻防線上が房総半島に至ったとき、その「ヤマト人」に待ったをかける人物がいた。それが「阿久留王」であった。当然「阿久留王」は「ヤマト人」から見ればとんでもない「悪い人物」である。だから列記した名を付け、「賊」「鬼」「蛇」として滅ぼしていったのである。》
 阿久留王やヤマトタケルは架空の人物です。しかし、この伝説は、ヤマト王権による日本列島征服のいきさつなどを想像させてくれます。

 ともあれ、鬼泪山は古代史にも関心をいだかせてくれるすばらしい山です。

(2009年5月)




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