大井千加子さんの講演を聞いて




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講演の感想




私たちは3・11を忘れてはならない

船橋市 山下好子さん


 ひとりの人間としての生きざま、生き方に感動しました。  津波と原発事故の被害が重なった中で真正面から向き合う責任感の強い人が、今も支えている。津波は逃げれば助かる。原発はどうにもならない! すぐに廃炉にしてほしい!  彼女は「国は本当のことを隠さず言ってほしい」と訴えた。政府は、隠したりウソをつくのが当たり前になっている。まともでない日本。  私たちは3・11を忘れてはならない。一日も早く安心して暮らせるように! 大井さんも身体に気をつけてください。


介護施設の被災が教えるもの

船橋市議会議員 岩井友子さん


 津波、原発事故、避難──。つぎつぎに襲ってくる困難は、聞いていて胸が苦しくなるぐらい過酷だった。
 入所者の方がたといっしょに本当によく生きのびられた。その体験をちゃんと生かして無駄にするまいと思う。
これまで特別養護老人ホームなどの介護施設は、震災時、介護が必要な人たちの福祉避難所的な役割も期待する施設だったが、介護施設そのものが被災した場合どうするのかということは考えられなかった。
 大規模震災が起きた場合、市内や近隣だけで支援しあうことは無理があって、広域的に連携をとる必要があることを、ヨッシーランドの入所者の状況は教えていると思う。災害が起きる前に連携先の計画を作り、相互に連絡をとっておき、いざという時に素早く対応できるようにすることが必要なのではないか。それは、老人の施設だけでなく、障がい者の施設でも、病院でも共通した課題だと思う。



大井さんの目標を応援したい

千葉県自然保護連合 牛野くみ子さん


 東日本大震災から6年が過ぎた。津波や原発の恐ろしさを風化させないようにと、報道各社が当時の映像を流している。しかし、当事者から直接話をうかがうと、その恐ろしさ、悲しさ、悔しさが迫ってくる。
 そして、私たちは今後どのように生きねばならないか、また、人間の尊厳とは何かを考えさせられる。亡くなったからといって、冷たいコンクリートのうえに寝かされたままでは、やりきれない。
 心の葛藤はいまも続いているそうである。大井さんの家は敷地から20mの範囲が除染されただけである。このようなところにすぐに帰るのはむずかしい。しかし安倍政権は帰還を推進し、住宅支援や賠償を打ち切ろうとしている。この国は国民を守らないことがよくわかった。今後は大井さんの目標をみんなで応援してゆきたい。



「原発さえなかったら」と改めて思う

三番瀬を守る署名ネットワーク 細田邦子さん


 あのような状況の中で職務を全うされて頭が下がる思いです。地震に次いで津波、さらには原発事故と災いが降りかかり、混乱の中を逃げ惑うという、想像を絶する体験をされた大井千加子さん。
 ただ、地震や津波は天災であり、我々の力ではどうすることもできませんが、原発事故は避けることができた人災です。「原発さえなかったら」と改めて思います。
 この事故によって福島の人々の苦悩はこれからも続くのでしょう。家族はバラバラになり、これまで築いてきた生活も壊され、穏やかで美しい故郷も放射能で穢(けが)されました。
 どうかそこから立ち上がり、是非、再生してくださいと強く願うばかりです。



大井さんの講演で気づいた!

千葉の干潟を守る会 近藤 弘さん


 私はあの日、母の最後の入院手続きを終えて病院の駐車場から出ようとしたとき、烈しい地震の揺れに遭遇した。
 あれから6年。日々復旧の状況や今なお続く被災者の苦難が伝えられる。だが大井さんの講演は、そんな外の世界の模様ではなかった。介護長の彼女は、その時、津波の情報を知らされないままに多くの入所者の避難を始めた。車椅子や寝たきりの人。そして直後の大津波に命を奪われた、取り残された人々。いや、まだ泥の中に生きている入所者もいたのに助けることができなかった、と涙声で話す彼女の悔いと悩みはいくばかりのものであっただろうか。
「復興」は、お金をかけた目に見えるものだけではなく、被災地の人々の心の裡(うち)を理解しようとする努力と、そこに「同行」することに始まる、と気づいたのだった。



一言一言がとっても重かった

ちば文(ふみ)倶楽部 廣澤美佐子さん


東日本大震災は私の人生の中で最もショッキングな災害でした。講演を聞くまでは、そう思っていました。
生まれ育った大好きな福島、熱い思いを持って子を育て、働き、地域への愛情と信頼を育んできた一人の女性の言葉は、どのコメンテーターや文筆家等の発したそれとは比べられない、被災者すべての声のように聞こえて、今も私の心に刺さったままです。
少しばかりの義援金を拠出したり反原発のデモに数回参加したり、それでも被災地の報道番組があれば極力見て、少しでも知ろうとしましたが、全て絵空事でした。
私たち日本人は、そして社会は、あまりにも冷酷で、単純で、利己的です。
「泥水の中から引き揚げた人の重みを今もこの手に感じる」「私は被災者であるが、助けられなかった人たちに対しては、加害者なんです」。彼女の語る一言一言はとっても重く、私自身は、ただの傍観者でしかないということに、やりきれなくなりました。



九死に一生を得た叫び

ちば文(ふみ)倶楽部 山ア蓉子さん


 大井さんは南相馬市の介護老人保健施設で介護長(当時49歳)として働いていた。
 あの日、37人の犠牲者が出て、職員も1人亡くなった。まるで地獄のような修羅場の中、助けようと手を伸ばしたと言う。「その人はもう死んでいる。生きている人を優先して」。レスキュー隊の声。その選択の苦しさは自分への怒りとなって今も消えないと、涙ながらに語った。
 福島の人たちの津波と原発事故の二重被害。今も約10万人が避難生活を強いられているという現実。政府が放射能物質の拡散予報を公表したのは3月23日であった。 「なぜすぐに公表しなかったのか」という批判に対し、「混乱を避けるため」という答えだったと言う。「私たちは見捨てられた」と語気を強めた。
 大井さんの家族はいまも家族7人バラバラで避難生活を続けている。昨年7月に避難指示が解除された。自宅敷地内の除染作業は終わったとされたが、敷地内で放射線量の異常に高いところは検出限界値9.999の濃度である。帰宅解除になっても安心して帰宅できない現状だそうだ。
 大井さんはいま、帰宅できる日に希望をつなぎ、自宅の近くで介護施設を開く準備を進めている。
 私は、講演を聴いて身ぶるいしながら涙を流し、共有できた経験を「このままで終わりにしてしまいたくない」と思った。



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