★環境保護団体の紹介



  千葉県野鳥の会

  〜自然破壊に反対し、鳥がすめる環境を守る〜

 


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 今から25年前の1974年1月27日、千葉市内泉自然公園で千葉県野鳥の会の前身である「千葉野鳥の会」の結成大会が開かれた。その2年ほど前から「千葉の干潟を守る会」や「房総の自然を守る会」が活動していたが、千葉県にも日本野鳥の会の支部が欲しいとの声に応えて、石川敏雄さんが有志に呼びかけての発足だった。翌月には支部設置の認可を得て、正式に「日本野鳥の会千葉支部」が誕生した。


 初年度の行事を見ると、2月に西小中台団地自治会東関道対策委員会主催で本会後援の西小中台観察会、3月と4月には千葉の干潟を守る会と共催の小櫃川河口自然観察会と京葉港埋立地自然観察会が目を引く。本会は、当初から、開発の名のもとに行われる自然破壊に反対する姿勢を貫いていたのだ。


 本会は探鳥会・自然観察会を柱に活動してきたが、初年度から春秋2回の全国干潟の鳥一斉調査に参加し、翌年からは県内の冬の水鳥の調査も加え、データはすべて公開している。長年にわたるこの蓄積が、その後の新浜、谷津干潟、三番瀬、小櫃川河口などの保護に際して大きな力となった。


 発足時には100名ほどだった会員数も、7年後には400名をこえ、行事の数も年間60回余りとなって、会は順調に発展していた。しかし、その陰で、深刻な危機が迫っていた。1980年前半より、日本野鳥の会事務局は本部と支部を一本化する規約改正問題を提起し、やがて日本野鳥の会の創設者で会長の中西悟堂氏の辞任にまで発展した。この問題は日本野鳥の会千葉支部にも波及し、支部内でも本部事務局の方針に対する賛成派と石川支部長らの反対派の対立が生まれた。


 翌1981年1月、「日本野鳥の会千葉支部」は本部から支部承認を取り消された。翌2月に石川さんをリーダーとして「千葉県野鳥の会」を結成し、現在にいたっている。(そして同時に、本部支持グループは、本部の承認を得て「日本野鳥の会千葉県支部」を結成した)。
 この分裂劇には、謎の部分が多い。石川さんは「そろそろ本当のことを書き残して置かねば」と準備を始めた矢先、不慮の事故で先立たれてしまった。だが謎解きの手がかりはあった。分裂前夜の1980年5月17日に開かれた日本野鳥の会本部と千葉支部の懇談会の席で、本部事務局長は、石川支部長が関西新空港問題について本部に無断で外部団体と接触を試みたと非難した。「開発を前提とした野鳥調査には協力できない」という、石川支部長をリーダーとする千葉支部の方針を、本部支部一本化で封じ込め、本部の意向に反する支部活動はいっさい認めない、というのが本部の本音だったのではなかろうか。
 会の分裂の16年後に、第2の危機が突然降りかかった。1997年2月、本会の創設者で会長の石川さんの交通事故、そして1カ月後の永眠。石川さんは死期を予感していたのか、その直前の1月の総会で、それまで1人であった副会長を3名に補充していたので、この危機を乗り越えることができた。翌1998年1月、富谷健三さんが新会長に選出され、現在にいたっている。


 さて、千葉県野鳥の会の規約では、会の目的として、「野鳥を通じて自然と交わりを深め、自然の摂理を学び、自然を尊ぶ心を養い、……社会文化の向上に尽くすこと」を掲げている。すなわち、本会は、単なる“鳥キチ”の集団ではなく、鳥の棲(す)める環境を大切に考えるがゆえに、あらゆる自然破壊に反対し、そして行動している。


 本会の現在の最大の課題は、千葉県が埋め立て計画を進めている、東京湾奥に残された最後の干潟・浅瀬「三番瀬」を守ることである。そのため、本会は「三番瀬を守る署名ネットワーク」に結集し、多くの仲間たちと協力して、一日も早く埋め立て計画の撤回を実現したいと考えている。
 




《参考資料》
 平澤正夫著『汚染された自然保護−日本野鳥の会を検証する』(三一書房、1992年、850円)
 なお、本書第6章「本部は支部と暗闘して二重構造をつくる」の中で、著者は、日本野鳥の会千葉支部の分裂劇の背景を、独自の取材にもとづいて分析し、その舞台裏を生々しく描いている。
 



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