京葉臨海埋め立ての裏側

〜三井不動産と千葉県の関係〜

開発問題研究会



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 (2003年)8月6日から3日間、「豊かな自然をとりもどそう」をテーマにした「三番瀬フェスタ」が船橋市内で開かれました。最終日(8日)に第二湾岸道路の問題を報告した三橋福雄さんは、質疑討論のなかでこう述べました。
     「千葉県の埋め立ては千葉県企業庁と三井不動産が共同で進めた。三井不動産の意思を無視しては物事が決められなかった」
 三橋さんは、この点についてこれ以上述べませんでした。したがって、三橋さんが言いたいことを理解した人は少なかったのではないかと思います。
 実は、この点こそが千葉の埋め立ての核心部分です。そして、千葉県政に大きな影響を与えているものです。いわば、千葉県政の暗部であり、ドロドロ部分です。これを見据えずに、千葉の埋め立てや政治・行政を理解することはできません。


●埋め立て事業に参入すれば巨利を得ることができる

 京葉臨海部(千葉県の東京湾岸)の埋め立ては、進出大企業への工場用地の低額提供という側面と同時に、利権開発という側面をもっていました。
 柴田等氏は、1950年から1962年まで知事を3期務めた人物です。この柴田知事のもとで副知事をしていた宮沢弘氏はこう述べています。
     「自然公物というのか何かしりませんが、海は国有財産であることは事実です。(中略)埋立をするにはまず知事から免許権をもらわなければなりません(中略)。そこで埋立免許権の奪い合いがはじまるのです。有名無名の会社や個人が埋立免許を得ようと殺到してくるのです。何故か。それは土地造成事業が儲かるからです。やり方によってはとてつもなく大きい利潤があがるようです。そこで『海に投資せよ』ということになるのです」(『地方自治』1963年8月号)
 まったくそのとおりです。埋め立ては、前面の海底土砂を浚渫(掘削)し、その土砂を使っておこなわれました。ですから、簡単ですし、土砂の費用もタダです。金はあまりかかりません。
 しかし、東京圏に位置する京葉臨海部は、そのすぐれた立地条件によって、「土地さえ作れば、幾らでも売れた」(前出の宮沢氏)のです。
 造成原価と時価(市場価格)はたいへんな開きがあります。したがって、埋め立て造成を直接手がけたり、あるいは造成原価で埋め立て地を手にいれることができれば、「とてつもない大きい利潤」を獲得することができます。
 このことを早くから研究し、千葉の埋め立て造成事業にうまくくいこんで大儲けをしたのが三井不動産です。


●千葉港中央地区の埋め立てで大儲け

 千葉港中央地区185万坪(610ha)の埋め立ては、1963年に不動産会社(三井不動産が中心)と県の共同事業としてすすめられました。この地区は、現在は千葉市役所などが立地する県都千葉市の副都心地区となっています。ここで採用された開発方式は「出洲方式」とよばれ、全国的に有名になりました。朝日新聞千葉支局編『追跡・湾岸開発』(朝日新聞社)は、この「出洲方式」についてこう書いています。
     「『出洲方式』とは、埋め立て事業費を不動産会社と県が2対1の割合で負担し、造成地は県有地として千葉県が処分し、その売却代金は出資比率に応じて会社と県が2対2の割合で分ける方式。余裕のない県財政に負担をかけず、民間資本を導入して開発を進める独特の方法で、全国的にも注目された。だが、そのいずれにも三井不動産が絡んでいたことから、『三井はもうけすぎ』『官民の癒着』などの批判も起きた」
 同地区の造成原価は坪1万5000円であったのに、その一部を電電公社に分譲する際は坪4万円で売りました。同地区全体の決算では、造成費294億円にたいして売却収入は384億円となり、差額90億円が不動産会社と県の利益となりました。
 全体の出資比率は、不動産会社2に対して県は1、そのうち不動産会社内部の出資比率は三井不動産7、三菱地所1.5、住友不動産1.5でした。したがって、不動産会社が手にした利益は90億円の3分の2にあたる60億円、三井不動産の取り分は42億円です。同社は42億円という大金を185万坪の埋め立てだけで手にすることができたのです。


●三井不動産は三番瀬の埋め立てでも儲け
  〜日本一の不動産会社に急成長〜

 この方式は、三番瀬の埋め立て(京葉港1期埋め立て事業)にも適用されました。つまり、三井不動産は三番瀬の埋め立てでも大儲けしたのです。
 三井不動産は、友納武人・元知事が、「きたない建物のきたないところに社長室がありまして、出てきた江戸さんは小さくでワイシャツの袖はよごれているし、ヘソは出ているし、これが三井ご一家の社長さんなのかと、私頼りない思いをいたしました」〈『京葉』第41号〉と言っているように、わずか3棟の中小ビルを所有するだけの無名の不動産会社でした。それが、千葉の埋め立て事業を手がけることによって、莫大な利益を得ることができたのです。そして、その利益の一部でわが国最初の超高層ビルを建設し、同社は三菱地所を追い抜いて日本一の不動産会社に急成長したのです。


●東京ディズニーランド関連用地の土地転売

 三井不動産は、東京ディズニーランド関連用地(埋め立て地)の転売でもボロ儲けしました。
 1960(昭和35)年に(株)オリエンタルランドが設立されました。出資企業は、朝日土地興業と三井不動産、京成電鉄の3社です。この会社の事業目的は、260万坪の海面埋め立てと大規模レジャーランドの建設となっていました。
 それは、「船橋ヘルスセンター方式」による儲けをもくろむものでした。このことは、出資企業3社がいずれも、船橋ヘルスセンター関連用地(埋立地)の転売で大儲けをしていた朝日土地興業に直接かかわっていたことをみてもわかります。
 県は、オリエンタルランドの大規模な埋め立てとレジャーランドの建設計画をそのまま認めました。そして1964年、オリエンタルランドが県から工事の委託を受け、さらに同社から三井不動産と東亜港湾の2社が受託して工事がはじまりました。埋め立ては三地区(A、B、C)に分けておこなわれた。
 260万坪の埋立工事が完成したのは、1970年11月です。この間、この埋め立てが国会でも問題になりました。「県からオリエンタルランドへの譲渡価格が安すぎる」とか「千葉県は特定業者ばかり便宜をはからいすぎる」などというものです。
 その後、朝日土地興業がオリエンタルランドの持ち株を手放し、これを三井と京成が買い取ったために、オリエンタルランドの親会社は、三井と京成の2社となりました。
 最終的に103.8万坪が県からオリエンタルランドへ、1970年から77年にかけて譲渡されました。その内訳は、遊園地用地として63.8万坪、「遊園地建設資金確保」のための住宅用地(転売可能地)40万坪です。譲渡価格は1坪(3.3m2)あたり1万6688円でした。
 オリエンタルランドは、住宅用地40万坪の一部を日本住宅公団(現在の都市基盤整備公団)などへ売って400億円ぐらいの利益をあげました。また一部(23万坪)は、親会社の三井と京成がオリエンタルランドから“横どり”して転売し、数百億円を儲けました。  ちなみに、こうした住宅用地40万坪の転売による利益は、ディズニーランドの建設資金にはほとんど回っていません。
 一方、遊園地用地63.8万坪はどうかというと、そのすべてが遊園地(ディズニーランド用地)として使われたのではなく、一部はホテル業者などに転売されてしまいました。その売却価格は坪単価(平均)80万円で、オリエンタルランドが県から取得した価格の約 50倍です。
 こうしたオリエンタルランドや三井不動産などによる土地ころがしについては、計画時点で批判が出ていました。「はじめは巨大遊園地を建設すると宣伝しながら、あとでそれを縮小し、残りの土地の転売で大儲けをたくらむもの」などというものです。注目していただきたいのは、じっさいにその批判のとおりになったということです。
 前出『追跡・湾岸開発』も、こうした船橋ヘルスセンターや東京ディズニーランドの裏側でおこなわれている土地ころがしの疑惑についてこう書いています。
     「こうした華やかな面の一方で、この二つの施設(注、船橋ヘルスセンターと東京ディズニーランド)については、埋め立てと政治に絡む“疑惑”が絶えず取り沙汰され、『利権の海』との批判があったのも事実だ」

     「『行政と企業』『友納武人知事と江戸英雄(三井不動産会長)』の二人三脚で次々と埋め立て、出来上がった土地は1坪(3.3m2)1万6800円で、ディズニーランドを経営するオリエンタルランドに売られていった。その土地の値段が、みるみるうちに上昇し、今や1坪の値段は80倍以上に跳ね上がったのである。1万6800円という数字は、工事費と漁業補償から割り出した価格だが、無限の可能性を持つ土地を、たったそれだけの値段で払い下げた。そして、もともと『国民の財産』だったものを、一私企業に破格の値段で払い下げるとは──。批判は、こうした点に集中した。県選出の社会党代議士である上野健一(当時)、小川国彦の両氏らは、国会で『広大な一等地を国や県から安い価格で払い下げを受け、それを寝かして値上がりした段階で売るなどして巨額の富を得たのではないか』と追及した。その主張は、『公有水面の埋め立てで出来た土地は、国民の共有財産であって、私企業が暴利をむさぼるのは許せない』という考え方に根ざしている」


●三井不動産はディズニーランド建設に消極的だった
  〜全用地の転売をもくろんでいた〜

 ところで、遊園地用地(63.8万坪)の埋め立ては1970年に完成しました。しかし、東京ディズニーランド(TDL)が実際に開業したのは13年後の1983年です。なぜオープンが遅れたのでしょうか。その最大の理由は、三井不動産がTDLの建設をしぶったからです。
 この間のいきさつについて、県庁関係者はこう語っています。
     「ディズニーが軌道に乗ったいまだから話しますがね、三井不動産には何度も煮え湯を飲まされましたよ。交渉のたびに足を引っ張られるんだから。最初から三井はやる気ないんです。ディズニーみたいに金のかかる計画はつぶして、もっと安上がりな遊園地でもつくって、あとは土地で儲けようってハラじゃなかったんですかね」(『週刊文春』1983年9月8日号)
 三井不動産がTDL建設に消極的だったことについては、オリエンタルランドの高橋政人社長(当時)自身が、日本経済新聞連載「私の履歴書」(1999年7月連載)の中でくわしく書いています。一部を紹介します。
     「プロジェクトを『精力的かつ強力に推進する』という言葉とは裏腹に、リーダーシップをとった三井不動産が、むしろ進行にブレーキをかけていた状況が明らかになった。江戸英雄さんの後を継いだ坪井さんは常々、『ディズニーランドなんて前世紀の遺物だ。日本人には、すぐ飽きられるよ。米国側に10%ものロイヤルティーを払って採算が合うわけがない』と言っており、消極的どころか反対派でさえあった」

     「坪井さんは自分でつぶすとまずいから、米側から断らせようというもくろみだったようだった」

     「千葉県知事は当時、ディズニーランド誘致を公約の一つに掲げる川上紀一さんに交代していた。(中略)もし、この時知事が納得(米ディズニー社との交渉がまとまらない場合はTDL建設をあきらめるということについての納得──引用者注)していたら、東京ディズニーランド計画はおしまいになっていたはずだ。知事は、何としてでも誘致したいと考えていたから、その結果、坪井さんが退路を断たれることになった」
 これらをみれば、オリエンタルランドの親会社である三井不動産がTDL建設にやる気がなく、土地の転売でボロ儲けを図っていたことが一目瞭然でしょう。川上紀一県知事はこうした三井不動産の姿勢に激怒し、同社関係会社の許認可事務をすべてストップするという措置をとりました。そのため、三井不動産が姿勢を変え、ようやくTDL建設が日の目をみることになったのです。このいきさつを高橋政知氏はこう書いています。
     「三井不動産にとって、工事の許認可をストップされることは経営上の痛手であり、企業イメージもダウンしかねない。とてものことではないが、オリエンタルランドのことなど構ってはいられないという事態になってきた」(前出「私の履歴書」)
 つまり、当時の県知事だった川上紀一氏が断固たる措置をとったからTDLは建設が実現したのです。もし、“財界の番頭”といわれ、三井不動産など大企業の要求を百パーセント受け入れる沼田武・前知事が当時の知事だったら、おそらくTDLは建設されなかったでしょう。──これは県庁関係者の見方ですが、的を射たものです。


●ニセ念書による“川上降ろし”の謀略

 川上紀一知事は、こうした措置のほかに、前述のように、オリエンタルランドが用地の一部を県に無断で三井不動産など3社に転売したことについても売買契約を解除させました。この解除によって、三井不動産などは「買い値(計約32億円)の何倍にも価値の上がった土地を、泣く泣く元値で手放し」(朝日新聞千葉支局編『追跡・湾岸開発』、朝日新聞社)ました。「土地値上がり分も計算に入れると、3社は百数十億円もの大損をした」(読売新聞、81年3月1日)といいます。
 実は、この契約解除が川上五千万円念書事件の伏線になったといわれています。同事件は、川上氏が知事選に初出馬した前年の1974年春、東京都内の不動産業「ニッタン」の深石鉄夫社長から選挙資金として現金5000万円を受け取り、代わりに「受領念書」を渡したというものです。7年後の1981年に、この念書が深石側から暴露された。暴露された念書のコピーにはこう記されていました。
     「今般、川上紀一の千葉県知事立候補について我々3名(立会人のこと──引用者注)はその当選を期す為に、本日深石鉄夫氏より多額なる選挙運動資金を賜わり有難く厚く御礼申しあげ、またこの御厚意に背ぬよう当選を期して最大限の努力をいたします。就いては、当選のあかつきは、同氏の御事業に対して我々立会人3名は全面的にその御発展の為に協力することを誓います」
この念書には、本物の念書にはなかった次の文句が書きくわえられていました。
     「私川上紀一は貴殿に対して県及び関連事業団体等のあらゆる利権について相談し、貴殿及び貴殿の御すいせんの御事業が益々御発展するよう努力することを確約いたします」
 マスコミはこの“改ざん念書”を大々的に報道しました。川上知事は何者かによって書き加えられたと主張しましたが、マスコミはそれを無視しつづけました(マスコミがニセ念書だったことを報じたのはずっと後になってからです)。
 当然のことながら、県民のなかに怒りがまきおこりました。野党は臨時県議会で川上退陣を迫りました。川上知事は「便宜供与はしていない」と主張しつづけましたが、ついに1981年2月、真相解明がなされないまま辞任においこまれました。そして同年4月、知事選挙がおこなわれ、自民党の推す沼田武氏(川上県政のもとでは副知事)が新しい知事に当選したのです。
 この念書事件については、ひとつの見方として、開発利権の獲得に制約を加えられた三井不動産が念書事件を仕掛けたという説があります。
 三井不動産が友納県政とふかく結びつくことによって、千葉の開発で大儲けしたことはよく知られている事実です。友納氏の後を継いだ川上知事は、三井不動産の大儲けに制約をくわえました。たとえば、前述のように、三井不動産がTDL建設に否定的な姿勢を示した際、県内の同社関連の許認可事務をすべてストップしました。また、オリエンタルランドがTDL用地の一部を三井不動産などに県に無断で転売したことを発見し、売買契約を解除させました。こうしたきびしい措置を受けた三井不動産が“川上降ろし”をねらって念書事件を仕組んだ、というのです。


●堂本知事当選のウラに「旧川上支持派」自民党議員の“仇討ち”?

 2001年の知事選挙で無党派の堂本暁子氏が当選しました。選挙の際は、水野元代議士のグループなど、自民党の国会議員や県議の一部も堂本氏を支援しました。出口調査では、自民党支持票のほぼ2割が堂本氏に投じられていました。これが堂本氏勝利の一つの力になったことは否定できないと思います。
 実は、水野元代議士の一派などが自民党の岩瀬良三候補ではなく堂本氏を支援した背景には、強引な“川上降ろし”への報復があったといわれています。たとえば、あるインターネット掲示板にはこんな書き込みがされました。
     「先の知事選では、浜田−井手口(旧川島派)、飯島重雄(旧川島派)、水野清(旧川島寄り)などの、20年前の念書事件で最後まで川上側についた連中がひそかに堂本に票を流し、福田派⇒森派の岩瀬を落選させ、念書事件の仇を討った」
 それはさておき、三井不動産と埋め立ては千葉県政の歴史に大きな影響をおよぼしているのです。


●三井不動産の子会社社長に怒鳴られた友納県知事

 最後に、三井不動産と千葉県の関係を示すエビソードをあげます。
 オリエンタルランドは、東京ディズニーランド関連用地の埋め立て造成を自社に直接やらせてほしいと県に要請しました。県は当初、この要請を拒否しました。
 そこで、同社の高橋政知社長が知事室に乗り込み、直談判しました。そのときのいきさつを高橋社長はこう述懐しています。
     「(友納)知事の返答は『前例がないのでお断りする。いやしくも千葉県行政の責任は一身知事であるこの友納にある。私が委託せんと言ったら、絶対委託せん』とつれないもの。この言葉を聞いて、私も頭に血がのぼってしまった。『何を言うか。そんなくだらない返事を聞きにきたのではない』と声を荒らげると、知事の顔はみるみるうちに真っ青に。私はドアをバタンと閉めて出てきたが、その音の大きかったこと。しばらくは、県庁内での語りぐさになっていたようだ」(『日本経済新聞』1999年7月15日)
 結局、知事が譲歩して、オリエンタルド(三井不動産の子会社)の自社埋め立てを認めてしまいました。
 こうした事実からみても、「三井不動産の意思を無視しては物事が決められなかった」という三橋福雄さんの指摘は図星です。

(2003年8月)   





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