■初代代表・石川敏雄さんを偲ぶ

 千葉の自然保護運動の父
 石川敏雄さんの意志を継ぐ


千葉県自然保護連合 事務局長 中山敏則



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誠実・不屈の行動に感服

 わたしは1969年、千葉県職員に採用された。配属は港湾工業用水局(のちの県企業庁)である。最初に担当したのは東京湾岸の埋め立て業務だ。埋め立ての申請書と認可書の両方の作成をまかされた。数年後は知事部局でゴルフ場開発の許認可も担当した。

 埋め立てとゴルフ場開発は房総の自然をメチャクチャに破壊した。利権政治も横行した。埋め立て開発の舞台となった三番瀬は「利権の海」とよばれた。ゴルフ場開発も、そのすべてに大物政治家がからんだ。政治家はゴルフ場開発の許認可を県に急がせる。そのリベート(口利き料)はゴルフ場1カ所で100万円といわれていた。わたしは自然破壊への加担に後ろめたさを感じていた。

 1983年5月、第13回全国自然保護大会が千葉市でひらかれた。その企画や運営を担ったのは石川敏雄さんたちだ。わたしが所属する千葉県職員労働組合(県職労)も石川さんから大会参加の依頼を受けた。県職労の代表としてわたしが報告することになった。大会の資料集に「千葉県職員労働組合本庁支部 中山敏則」の名で報告文を掲載していただいた。テーマは「東京湾横断道路構想と千葉県の開発」だ。しかし別の用事と重なったため、わたしは大会に参加できない。県職労から伊藤章夫さんなど3人が参加した。伊藤さんがわたしの代わりに報告してくださった。

 1989年7月の1日と2日、第1回「開発と保全を考える」千葉フォーラムが千葉市でひらかれた。主催は千葉県自然保護連合などである。わたしも千葉県自治体問題研究所の所員として千葉県の開発問題を報告させていただいた。2日と3日の『朝日新聞』千葉版が同フォーラムを大きく報じた。

 このフォーラムを牽引したのも石川さんだ。わたしはこのとき、石川さんにはじめてお会いした。石川さんの謙虚で献身的で不屈の行動に感服した。その場で千葉県自然保護連合に入会する。


類い稀な“行動する知識人”

 石川さんは類い稀な“行動する知識人”だった。千葉大学の教授でありながら、環境保護団体の代表をいくつもつとめ、千葉県の自然保護運動に多大な貢献をされた。千葉県自然保護連合の初代代表をはじめ、「日本野鳥の会千葉支部」(のちに千葉県野鳥の会)の支部長、「千葉県野鳥の会」の初代会長、「ゴルフ場問題千葉県連絡会」の初代代表、「千葉県住民運動連絡会」の代表委員、「三番瀬を守る署名ネットワーク」の初代代表などである。そのため、「県内自然保護運動の父」として慕われた(『毎日新聞』千葉版、1997年3月26日)。

「房総の自然を守る会」(千葉県自然保護連合の前身)の事務局を引き受けるさい、石川さんは三輪教授に「そんな馬鹿なものを引き受けるものではない」と忠告されたという。石川さんは「誰かがやらねばならなくて、誰もやる人がいなければ、自分がやるしかない」と答え、事務局を引き受けた(石川敏雄「自然保護運動について」、千葉県野鳥の会発行『房総の鳥』石川敏雄会長追悼号、1997年6月)。

 石川さんはこうも述べている。
    「現在では干潟、浅場は残り少なくなっています。つまり、私たちの運動は敗北の連続でした。人によっては唯(ただ)の気休めの運動に見えたかも知れません。しかし、ひとから蟷螂(とうろう)の斧(おの)と言われようと、東京湾には絶対に干潟が必要なのだと、言うべきことは言っておかなければ、という思いでがんばってきたつもりです」(石川敏雄「干潟の再生をめざして」『ちば─教育と文化』第20号)
 石川さんはアカデミアにこもる学者ではなかった。わたしは、そんな石川さんの思想や実践に感化された。「かくありたい、こう生きたい」と思うようになる。「誰かがやらねばならなくて、誰もやる人がいなければ、自分がやるしかない」──。わたしもこの言葉を座右の銘にするようになった。


石川さんの意志を受け継ぐ

 残念ながら、石川さんは1997年3月25日に不慮の死をとげられた。この年の9月7日、県自然保護連合の総会がひらかれた。総会の案内が私にも届いた。創立時から代表をつとめてきた石川さんの逝去を受け、今後の連合をどうするかを総会で議論する。そのような主旨だった。わたしも総会に出席した。石川さんの逝去で連合の先行きに関心をもっていたからだ。

 総会では連合の解散話ももちあがった。わたしは「自然破壊の開発は今後もつづく。連合の役割は大きい」とし、県連合の存続を主張した。議論の結果、存続が決まった。わたしも事務局に加わった。石川さんの意志を継ごうと思ったからだ。以来、事務局次長や事務局長をつとめ、今日にいたっている。

 千葉県自然保護連合は県内各地の運動にかかわらなければならない。それも手弁当だ。たいへんである。苦労も多い。しかし、石川さんはそれを立派にやりとげていた。愚痴も言わずに、である。そんな石川さんの思想や行動が大きな励みになっている。都道府県の自然保護連合で今も残っているのは千葉だけである。

 石川さんは全国自然保護連合の理事をつとめ、全国連合の活動にもかかわっておられた。全国自然保護連合の事務局もたいへんである。全国の運動に手弁当でかかわらなければならないからだ。

 そのため、全国連合も2002年9月にひらかれた総会で「存続か解散か」が議論になった。わたしは存続を主張し、事務局に加わることになった。そのことが石川さんの思いを継ぐことになると考えたからだ。以来、わたしは全国連合の事務局も担いつづけている。

 千葉県自然保護連合の現代表、牛野くみ子さんは石川敏雄さんの同志だった。わたしは牛野さんといっしょに石川敏雄さんの意志を受け継いでいる。


社会運動における知識人の役割

 社会運動や社会変革においてはインテリゲンチャ(知識人)の役割がたいへん大きい。

 たとえばフランス革命を準備した啓蒙思想家はすべてインテリだ。フランス革命を指導した人物も、弁護士や文筆家などインテリが多かった。最高指導者のロベスピエールは弁護士だった。

 世界最強のアメリカ軍に勝利したベトナムの指導者、ホー・チ・ミンもインテリ出身である。アメリカの人種差別撤廃運動を牽引したキング牧師もインテリだった。人種差別撤廃運動の指導者は何人も殺害された。だがキング牧師らはひるまない。ついにキング牧師も暗殺された。

 歴史家の色川大吉さんは指摘する。
    〈歴史をつくるのは民衆だというが、民衆それ自身ではない。(略)歴史を決定的に動かすのは、民衆から離れず、民衆の一歩前を自覚的に歩いてゆく少数の小リーダーである。その小グループの運動が、不断に変革を準備することをしていなくては、歴史の創造の主役として民衆が政治の局面に登場することはありえないと思う〉(色川大吉『昭和史 世相篇』小学館ライブラリー)
 石川敏雄さんは、そのようなリーダーの見本である。わたしは石川さんの姿を田中正造と重ねあわせている。

 ところが日本では、石川敏雄さんや田中正造のように社会運動を実践的に指導するインテリは皆無に近くなった。

 作家の保阪正康さんは指摘する。
    〈田中(正造)のその一生を貫くものは、作家の佐江衆一が評する「馬鹿正直なまでの一途さと無垢な人柄」だった。私もこの語のとおりだと思っており、さらにそのうえ、田中は己れを捨て、救民のためにその生涯を使い、そして自らは官位栄達を求めることなく、ほとんど野垂れ死にの状態だったことをつけ加えてもいいだろう。このような人物をどのていど歴史の中にかかえこんでいるかで、それぞれの国の歴史の重さが違う。近代日本の歴史において、このような人物を数多くかかえこんでいれば、歴史の重みは増すと思うのだが、残念ながら日本にはそういう人物はそれほど多くない。この国の歴史にふくらみがないのはそのせいだといってもいいであろう。もし田中のような真っ正直で救民の意志をもつ人物が、近代日本のなかに100人単位で存在していたなら、次代の者は胸を張って先達の歴史を語ったことだろう〉(保阪正康『時代に挑んだ反逆者たち』PHP文庫)
 まったく同感である。


自然保護運動は大きく変化

 2000年ごろから日本の自然保護運動は状況が大きく変わった。行政機関や経団連(日本経済団体連合会)、原発メーカー、大手ゼネコンなどから巨額の資金援助を受ける団体が幅をきかすようになったのである。当然のことながら、こうした団体は環境破壊の公共土木事業などに抗することはしない。

 経団連は大手ゼネコンや原発メーカー、大手デベロッパーなどから巨額の寄付を集め、それをさまざまな自然保護団体にばらまいている。懐柔策である。その額は毎年1億5000万円におよぶ。寄付団体や配分先は経団連の発行物やホームページに掲載されている。ところが、それをとりあげるメディアは皆無である。学者やジャーナリストもとりあげない。

 自然保護団体が大型土木事業などの環境影響評価業務を受託し、事業推進にお墨付きを与えるケースも増えた。こうして、自然破壊に抵抗する自然保護団体は絶滅危惧種になりつつある。石川さんは草葉の陰で嘆いておられると思う。
(2021年3月)




石川敏雄さん(牛野くみ子さん提供)



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