南総の谷津田(谷田)を残そう
〜文化財として谷田を思う〜
鈴 木 藤 藏
(夷隅郡市自然を守る会、千葉県野鳥の会)
里山と谷津田。この言葉は、下総台地(北総台地)などの人と自然との結びつきを語る時に広く使われている。ところが里山はとにかく、谷津田は、南総地方では昔から人里から離れた谷間の水田(たんぼ)ということから谷田(やつだ)と呼んできた。また、単に谷ともいい、林と合わせた呼び方をすることも多い。
その谷田は南総地方の原風景である。谷津田を「台地と台地の間の谷底の水田」とすると、谷田は「丘陵と丘陵の間の谷底の水田」ということになり、いずれも地形としての谷間の水田(たんぼ)のことである。
ここでは、この南総地方の谷津田を特に谷田と呼ぶことにしたい。
1.谷田の現状
今、その谷田の多くが耕作放棄や休耕で荒廃し、消滅している。耕作は続いていても食料としての米を収穫するだけの場となってしまっている。
いうまでもなく、1955年代から、農耕牛に代わり耕運機が普及するとともに、どこの一般水田も、土地改良工事などの名で圃場整備が進められ、機械化に合わせられた。谷田も、谷間が深く広いものは、林道や農道から整備され、その後、減反政策の推進で林地へ転用されたりした。若者の農業離れと耕作者の高齢化も加わった。残った谷田は、米余りと経済不況の中でも整備が推進されたり、さもなければ能率の悪い場所、高齢者の耕作するものから放棄は続く。
耕作放棄された谷田は、人工林か牧草地へ転用されている。また、都市部から離れたこの地でも、廃棄物や残土の捨て場になるか、ただ荒廃が進み、藪状か崩落して形を変え原生自然の谷状に戻っている。そのうえ、山林の荒廃で、作業道も利用できないものが多い。地形としては残っていても、虫食い状態が多く、本来の谷田機能はせず、在来動植物の中には生息できないものが多くなるなど、生態系は壊されてしまった。
2.本来の谷田
谷田は、前述の地形の上に奥から谷の入口まで段々状で大きさの異なる水田が不規則に続き、あるいは途中に畑や林があり一端とぎれてまた続くというもので、最深部や途中の沢・谷に堰のあるもの、部分的に小川や土水路のあるもの、複雑に曲がりくねった畦(畔)とテビ(手樋)〈注1〉、それにミノテ(箕手)〈注2〉とフチ(淵)〈注3〉の続く立体的で、さまざまな高低や傾斜のヤナ〈注4〉が山林に続く。そんな変化に富んだ地形の作業道に土橋〈注5〉が架かり、ヤナの上には小屋が立つ。簡単にいうと、このようにして谷田は形成されているのである。
稲作という点からその機能を見ると、山林の谷筋からの流出水と堰に溜めた水を水田に入れ、ヤナ際から湧いたデス(出水)も、いったんテビで温め取り入れる。苗代時から田植え、その後の穂が出るまでこの水と雨水に頼るのである。その水の管理は、堤防であるクロ(畦)と水門であるミノテによる。
谷田の耕作者は、土木技術者だといわれている。ここでの稲作は、土と水の管理いかんにかかっている。春が来ると、ミノテやテビの修復や整備をしてクロ切り、クロ寄せ、クロ塗りをしてカベッタをうなう〈注6〉。水田を簡易貯水池とすれば、これら作業は、堤防の修復工事といえる。
また、小川や水路の整備清掃、ヤナ刈りをする。この間に大雨などの災害によるクロ・土手やヤナの崩壊(地域ではビャクという)などの被害があれば、主として丸太や竹材と土、シバ〈注7〉など、現地調達の材料で復旧工事も済ませる。そして、植え付け前から朝夕まめに見回りをして、水量の調節をする。
水管理は経験を要するもので、圃場整備の進んだ一般水田では配水管のバルブをひねればすむが、谷田では空もようと自然流水を見て判断し、ミノテの開閉具合で調節する。必要に応じ、水路を堰止めて導入もする。堰からの水は、主として最悪時の非常用としての利用となる。
ミノテ、フチ、テビ、堰とこれらは、谷田の心臓と動脈である。特に、堰のない谷田のフチは、干ばつ時は重要な役目を果たす。水田の水が涸れ、山林からのデスも切れると、このフチの水を汲み上げるのである。耕作者の土木技術者としての工事は、地形により、作業道や土水路、ミノテやフチの位置を決めている。
その方法は、まず、いかにしたら水田の面積を広くとれるか、大雨による被害を少なくできるかなど、水利上の問題、日照はどうか、農作業の利便はどうか、工事の材料や能率はなど、まさしく土木技術者としての才覚がものをいうのである。その一例が水路である。水路は、水田の面積を広くとるため山林との境目のヤナ際に設けるのが一般的であるが、できるだけ山林側に寄せて設けるか、ヤナを部分的に隧道で結ぶなどして、しかも水田の日照を考慮した方向に設けている。(谷田の段々田はいわゆる棚田(千枚田)とは異なる。)
3 谷田の自然環境
谷田は、わが国自然の凝縮地であり、その生物は多様である。 動物について見ると、水生昆虫類、フナ・タナゴ・ドジョウ類、メダカ、ウナギなどの魚類、タニシ類などの巻貝、マシジミ、イシガイなどの二枚貝類、カエル類などの両生類、イシガメ、カナヘビ・マムシなどの爬虫類が生息し、トンボ類が飛び、サギ類、カモ類、キジ類、シギ類、キジバト、フクロウ類、カワセミ類、セキレイ類、モズ、ツグミ類、ホオジロ類などの鳥類が採餌し、山林からはタカ類、カラス類が来る。ヤナにはハチ類、チョウ類、バッタ類などの昆虫類が生息し、哺乳類ではノウサギが入り、ネズミ類、モグラ類、イタチ、テン、アナグマ、タヌキなどが餌を求めて来る。水路や谷筋には、トウキョウサンショウウオ、ホトケドジョウ、サワガニ、ヌカエビが生息する。
これらの動物は、山林を背景にした季節や天候、農作業の推移により地域を移動しながら生活している。水生動物などは水田やテビの水が切れると、フチに一時避難して雨が降り十分な水量になるのを待ち、逆に大雨の場合は流れの治まるのを待つなど、谷田の変化に順応した生活をする。谷田の各水田も、このフチも古来からのビオ・トープである。
植物では、テビ周辺でセリが、手入れされたヤナではフキ、ワラビなどの山菜が採れる。そして、スミレ類、ヤマユリ、オミナエシ、リンドウ類など、その季節の花が咲く。林縁部では、クワやイヌビワ、モミジイチゴ、エビヅル、アケビなどの実が採れ、ヤマイモが育ち、ウツギ類、ヤマツツジ、アジサイ類、ノイバラが咲く。
このように、谷田やその周辺は豊かで景観は素晴らしく、人にとって自然の食料生産場であり、農作業の合間の憩いの場となり、子供達には遊び場やおやつの供給場になる。動物にとっては、食物連鎖の起点ともいうべき貴重な場所である。
それが、圃場整備の進んだ谷田は、機械化に伴い、畦(畔)は直線でミノテもフチもなく、小川や水路はコンクリートで直線的に排水路化され、改修された河川へと通じ、稲の成育期以外は乾田化され省力化された。これでは、水生動物はもちろん両生類や水辺の鳥類は生息できない。よく水のないコンクリート水路内から出られないヘビ・カメ・カエル類などを見掛けるが、心が痛む。
水路や小川の流れは蛇行して瀬と淵があり、底質は砂や泥と小石と変化があり、岸辺には植物が繁茂するような環境でなければならない。土水路のコンクリート化は水生昆虫や貝類、タナゴ類、ホトケドジョウ、メダカ、トウヨシノボリ、トウキョウダルマガエルなどの減少や絶滅に通じている。 希少種ばかりか、淡水魚類の多くは、人手の入った稲作とともに共生してきた。メダカを例に挙げると、何度も産卵し稚魚は二か月余りで親になるが短命と、水田の変化に順応した生活リズムになっている。その稲作サイクルばかりか、谷田を打ち壊してしまっては生態系と文化の崩壊である。
4.谷田の保全を考える
このように、稲作2000年におよぶ先人の努力は、谷の奥までを段差を利用し、水利を考えて水田として完成させ、そこで日常生活に必要な食料の供給を受け、自然との触れ合いの場として動植物と共生してきたのである。その谷田は、単なる郷愁や、目先の農村の原風景という景観保全ばかりではなく、多様な動植物を育んできた食物連鎖の起点として重要な自然環境であり、先人の労苦を思い、谷田利用の技術保全と継承のための、わが国の文化財である。
この重要な谷田の保全は、一口でいえば、コンクリート化しないで「引続き耕作する」、「周年水を蓄える」、「水路の手入れやヤナ刈りをする」ことであるが、耕作は60歳代までで、70歳代になると作業は困難になってくる。周年水を蓄えることについては、耕運機と稲刈機を入れるためどうしてもむりで、一部にある手刈りのものでも、重労働で非能率のため実現が困難である。
それでは稲作に代えて谷田機能と環境を維持するどんな方策が考えられるのか。
などを速やかに考えるべきである。この谷田保全は、わが国農業の根幹に関わる問題であり、環境と教育機関を含めた行政の立場からも考えてもらわなければならないが、その前に早く、地域の現状に合った策を立てるべきで、農業団体や自治体などの地域の各種団体とが連携し手を打つべきである。
- 転作策として、水生植物などの栽培
- ボランティア団体による耕作の継続やビオ・トープとしての管理など
- 自治体などによる買い上げ、管理による保全
〈注1〉手樋(てび)。手作りの簡易な灌漑用水路。主にヤナ沿いに設けられる。 〈注2〉箕手(みのて)。水田に設ける箕のように左右に出ばった形の排水用口。 材料は木材と枝、藁、むしろなどを使う。水田の水門。 〈注3〉ふち。タンボ、オッポリ、ウケなど、南総地域でも呼び名はいろいろ。 ミノテから下の水田に落ちてできた「溜まり」のことで、形状、大小、 深浅など、さまざま。水の勢いを押さえるため周囲を木の枝や竹で囲 ったり、ヨシやガマが生えて動物の生息環境としては最も良い。「淵」 同様の意味からこの名が出たらしい。 〈注4〉やな。水田から林につながる間の草の茂る斜面をいうが、水田際の草の 茂る斜面や土手を指すこともある。 〈注5〉土橋は、丸太を並べて基礎にし、土砂を盛りシバを張って作る橋。 〈注6〉クロ切り……前年に壁状に塗ったクロ(畦)の部分をクワやスキで切り取 り、その面をカケヤで打ち固め、水漏れを防ぐと同時に新 たに塗り易くするもの。 クロ寄せ……クロ塗りのために、クロ際に土を寄せ、こねて準備してお くこと。 クロ塗り……クロ寄せした土を、クワで畦際にドロ壁状に斜めに塗るこ と。ケラやモグラ、ネズミなどによる水漏れを防ぐための もので、堤防と同じ役目。 カベッタをうなう……稲株のある状態の最初の田うない。「田返す=耕 す」で機械による機械的な田起こしとはやや異なる。 〈注7〉シバ。芝ではない。付近の、表面に密集して雑草の生えた土。草の根の ため芝状であり、張り付けてタケを刺し固定するとすぐに雑草が成長す ることで土砂の流失防止になる。
(1999年10月)
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