★大規模開発の実態をみる


札束でひっぱたかれ、海を奪われた漁民たち

〜 漁業権放棄の内幕 〜

開発問題研究会



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 はじめに

 1950(昭和25)年に川崎製鉄が千葉市の埋め立て地に進出して以降、千葉の東京湾岸はかたっぱしから埋め立てられてしまった。
 海を埋め立てる場合は、漁民たちに先祖伝来の漁業権を放棄させ、漁民を陸(おか)にあげることが必要である。1954年の千葉市・蘇我漁協組合員の放棄をかわきりに、浦安市から富津市までの漁民はつぎつぎと漁業権を放棄させられた。漁業権を全面放棄した漁協は33組合にのぼる。組合員数は1万4631人である。
 これらの人びとは、自らすすんで漁業権を放棄したかのように宣伝されている。が、けっしてそうではない。そういう漁民も少なくなかったが、放棄に反対しながらも、強大な県や大企業の権力と金力に屈し、泣く泣く放棄せざるをえなかった漁民のほうが圧倒的に多かった。漁業権放棄に強硬反対する漁協に対しては、内部から“暴力事件”をおこさせるなどの謀略がしくまれた。進出大企業への1戸1名以上の就職を斡旋するという約束で漁業権を放棄させながら、放棄後はその約束をホゴにした。賭博に誘われ、海を奪われた代償としては決して多くない補償金をヤクザにすべてまきあげた漁民も少なくなかった。安い費用で漁業権を放棄させ埋め立てた土地を大企業に格安の値段で売り渡し、“財界の番頭”(つまりは大企業のカイライ)と呼ばれた人物が長く県知事に君臨した。さらに、権力の手先となって漁業権放棄に暗躍した人物が強大な利権を手にした。──このように、そこには無数の百鬼夜行の実相が隠されていたのである。そのほんの一部を紹介しよう。









1.内湾漁民の受難のはじまり
    〜仕組まれた“暴行事件”〜
 戦後の京葉臨海部における漁業権放棄のはじまりは、東京電力千葉火力発電所の建設である。1954(昭和29)年、東京電力は川崎製鉄の隣りの千葉市生浜町海面に火力発電所を建設する計画を県に提出した。県はこの要請を受け入れ、漁業権を持っていた蘇我漁協に対して漁業権放棄を申し入れた。
 しかし漁民は強く反対する。反対運動を日ごとに高めていった。当時、千葉県副知事として漁業補償交渉を指揮していた友納武人氏はこう語っている。
    「かねてから予期はしていたものの、猛然たる反対がまき起こり、焦燥と戸惑いとを感じつつ、ずるずる日を重ねているうちに、漁協との交渉もだんだん困難となる一方、その間漁協の方は、強力に組織化されていった。蘇我の蘇我姫神社の境内に反対運動本部がおかれ、漁民の家々には埋立て絶対反対の貼り紙が貼られるといった状況であった。漁民達は、戦争中、日立航空機工場が建設される時、軍部の圧力で有無をいわせず漁業権を取り上げられてしまった。反対の者は、憲兵隊に引っぱられた。こんどはそう簡単にはこの海苔とあさりと蛤の漁場を離さないと強く主張していた。日に日に漁民の反対運動は高まりをみせ、その夏、蘇我漁協を中心とする漁民が千葉市役所に押しかけ、代表者が市長に面会を求め交渉しているすきに、若者の一団が市長室になだれ込み占拠するという事件が起こった」(友納武人『疾風怒涛─千葉県政20年の歩み』崙書房)
 県から友納副知事や水産部長がしばしば漁協に出向いて説得工作をつづけた。だが、漁協はまったく受けつけない。1954年9月になると反対運動はますます高まりをみせ、蘇我漁協だけでなく、内湾の各漁協も反対運動に立ち上がった。漁民2500人が県庁に押しかけ、県庁前公園で「漁業権確保漁民大会」をひらいた。そこで、決議文を受け取りに出た柴田等県知事がもみくちゃにされて負傷するという事件が起きた。その時のことを柴田等氏(当時の県知事)はこう述懐する。
    「群衆との話合いは静かに進んでいたが、突然、酒をのんでいるらしい漁民が肩に手をかけて突き飛ばした。さらに別の漁民が帽子をはねとばした。なぐったり、けったりするものが出た。眼鏡、帽子を失ってもみくちゃになっていると報道人や、警察官が割って入ってきて助け出された」(柴田等『三寒四温』隣人社)
 この“暴行事件”が漁民の反対運動に水をさす結果となった。この事件を契機として県と漁協の漁業補償交渉が進み、ついに同年10月8日に妥結したのである。柴田氏は、さきの述懐のつづきでこう語っている。
    「知事室に戻ると、警察は、申訳ありません犯人は必ず逮捕しますといい、報道人も憤がいしていたが、私は逮捕しないようにと頼んだ。この事件は新聞に大きく報道されたが、警察側は頼んだ通り唯一人も逮捕することはしなかった。結果的にみると、このことは、漁民に非常な好感を与えることになった。柴田知事は、決して我々の敵ではない、漁民のための政治をやってくれる、との印象をもたせたようであった。東電千葉火力発電所の進出も決まり、ノリ漁民への補償金は総額150億円が支払われた」
 この暴行事件は“仕組まれたハプニング”であった。当時記者をしていて、その後加納久朗知事の秘書になった野村泰氏はこう述べている。
    「突然訪れたこのハプニングは、当時記者であった私の脳裏に20年近くたった今もまだ生々しい記憶として残っている。後の調査でわかったことだが、数名の暴漢はあらかじめアルコールが入っていた。むしろ仕組まれた大会であったようだった。知事も体中にアザができる始末だったが慎重を期した県当局は警察沙汰にはしなかった。こんなハプニングを山場として交渉は次第にまとまり、3年位かかって補償金交付の段取りとなった。京葉工業地帯の最初の拠点はこのようにして確保され、すべり出した」(野村泰『住民・行政・企業の明日を考える』ぎょうせい)。
 このような陰謀によって、東京電力千葉火力発電所の建設は「戦後における内湾漁民の受難のはじまり」(湯浅博『証言・千葉県戦後史』崙書房)となったのである。












2.漁民をだました県と新日鉄

 埋め立て開発の進行にからんで、漁民はつぎつぎと漁業権を手放していった。1957年に五井町君塚漁協と市原町八幡漁協、58年に五井町五井漁協──というようにである。
 1960(昭和35)年9月には新日本製鉄(当時は八幡製鉄)から君津進出の申し入れがあり、君津海面の各漁協に対する漁業補償交渉がはじまった。県から漁場放棄の申し入れを受けた大堀漁協と坂田漁協は、直ちに漁民大会を開催したり、対策委員会を結成するなどして、この申し入れに強く反対する態度を示した。君津漁協では、調査・研究をして慎重に検討することを決めた。
 しかし、県と町、さらにマスコミが一体となった説得工作がはげしくつづいた。新日鉄進出にともなう漁業権放棄の経過をくわしく調査した柿崎京一氏は、『近代漁業村落の研究─君津市内湾村落の消長』(御茶ノ水書房)の中でこう書いている。
    「しかしすでにマスコミは一斉に埋立問題が急速に進展しているように報道しているなど、当時の世論は、組合の対応をはるかに先行しており、これに刺激されて組合員の焦燥感も強まっていた。(中略)その後も新聞その他マスコミではしきりにこの問題をとりあげ、その中には君津漁協が埋立申入れを受諾することを既定のこととし、残された問題は補償金額だけだという報道や、補償金はおよそ1000万円と推定する記事まで出るほどであった。また町当局や議会、さらに県開発部からの働きかけも頻繁となり、とくに検討会が丁度海苔採取も漸く切りあげ時期を控えて地区別に開かれるようになると、こうした上部からの働きかけはより個別的にはげしさを加えるようになった」
 こうして1961年8月10日、君津漁協は県との漁業権放棄の協定に調印した。同漁協が漁業権放棄を決めた臨時総会の採決結果は賛成157名、反対51名で、1戸平均の補償額は635万円であった。一方、本組合(漁協)に加入していない雑漁漁民(約70名)への補償金は1人あたり約30万円でしかなかった。
 漁民が漁場放棄に応じた主な理由は、県が、漁業権を放棄した漁民のその後の生活について、具体的な対策を約束したことだった。この約束は、県と君津漁協との間にとりかわされた「区画漁業権漁業および共同漁業権漁業に関する協定書」に明記されている。主なものはつぎの4点である。
  1. 進出会社に対し、1戸1名以上の者の就職を斡旋する。
  2. 進出会社以外に対しても優先的に就職の斡旋を行う。
  3. 進出会社工場内の売店設置、出入船の荷役に対する物品販売、その他工場の操業、従業員の生活に必要な営業を希望する者がある場合は優先的に斡旋する。
  4. 補償金にたいして課税される国税と地方税に対する研究指導(いわゆる減税対策)を行う。
 要するに、新日鉄への1戸1名以上の雇用を約束する。また新日鉄への就職を好まない者に対しては他会社への優先的就職を斡旋する。さらに新日鉄などに関連する営業を斡旋する──などである。この条件に漁民は大きな期待をかけた。
 ところが実際には、この約束は守られなかった。新日鉄のはじめの計画では、漁業権放棄後ただちに埋め立てに着手して工場建設にとりかかり、1962年9月には一部操業する予定であった。だが、新日鉄は景気動向などをにらみあわせながら埋め立てを中断し、工場の建設時期を大幅に遅らせた。漁民が漁業権を放棄しても、新日鉄はなかなか進出してこなかったのである。同社が本格的に埋め立てをすすめたのは協定締結から約5年たったあとであった。
 また、新日鉄が「転業希望者採用募集要領」を発表したが、それは採用にあたって数学、国語、常識、作文の4科目の筆記試験をおこなうというものであった。「1戸1名以上の優先採用」という条件しか念願になく、しかも採用試験の実施についてはまったく予期していなかったので、補償漁民にとっては大きな衝撃であった。柿崎京一氏(前出)はこう述べる。
    「就職希望者の中にはこの採用試験の発表と共に応募をあきらめる者や、受験はするものの万一不採用となることをおそれて他の企業の採用にも応募し、結局さきに採用決定した他の企業に就職してしまい八幡製鉄への就職を途中で断念してしまうものもいた。それでも11月15日の募集締切までには42名がこれに応じた。試験の結果、採用された者は18名(45%)と半数にも満たなかった」
    「八幡製鉄への就職・新しい生活への出発という住民の目算は、企業進出の当初から大きく狂わされる結果になったが、とくにその影響は転職要求の切実な零細土地所有の専業漁民層にヨリ深刻だった」(前出書)
 結局、海を捨てた漁民の多くは下請け労働者となった。
 補償漁民の期待どおりにならなかったのは雇用問題だけでなかった。新日鉄などに関連する営業の斡旋については、数えるほどしか実現しなかった。減税対策については、町当局が「税法上の理由から減税は困難である」という表明をした。が、この減税問題については、補償漁民のたびかさなる運動によって、ようやく転業対策助成金という名目で1組合員あたり2万5000円の税還付金が支給された。
 みられるように、新日鉄と県は漁民をだましたのである。元漁民の中には「あれもこれもみんな海を捨てさせるため、進出するためのペテンみたいなものだったんですよ」「県や町の人たちは、漁業を放棄させるときだけは熱心だったが、それが終わるととっつきのよくない悪代官さまみたいになった」(飯田清悦郎『欲望のコンビナート─地域破壊計画の真相』医事薬業新報社)などと言って、怒りをぶちまける者も少なくなかった。しかし、海を捨ててしまった漁民側の不利は覆うべきもなかった。漁協はすでに解体してしまっていた。ペテンを知っても、文句のもっていき場がなかったのである。このへんの事情を柿崎京一氏はこう書いている。
    「当初の漁協組合員1世帯から1名以上の優先雇用という条件は殆んど空手形も同然の結果となった。すでに生活の有力な基礎を喪失した住民各層にとってこうした事態はきわめて深刻であった。しかもそれに抗議しようとしても、八幡製鉄という巨大な組織からうける重圧感がその気勢を減殺し、さらに解体に瀕した村落の共同組織の現状ではそうした勢力の結集も容易でなく、彼らはあらためて自己の生活プランを構想しなおさなければならなかった」(前出書)
 漁民は泣き寝入りを強いられたのである。




新日本製鉄君津工場






3.泣く泣く漁場を放棄

 前述のように、漁民の多くは、放棄に反対しながらも、強大な大企業と国家権力の力におされて先祖伝来の漁業権を泣く泣く放棄せざるをえなかった。たとえば、青柳漁協の役員(県との交渉役)をしていた市川市太郎氏は、『毎日新聞』の連載「海に生きる」(1984年1月)の中でこう語っている。
    「組合員の大半は埋め立てに反対でしたよ。県が臨海工業地帯をつくるためだからと、漁業権放棄を迫ったのに対し、組合は3回も“放棄しない”って決議したほどですからね。ところが34年ごろから五井の埋め立てが始まり、泥流が海をおおい貝が3年連続で全滅、ノリもだめになってしまった。県も“もう漁業はやれんだろう”と、組合の腹を読んで、交渉の席上“がんばらずに全面放棄しろ。やれんもんしょうがあんか”と強気になった。泣く泣く放棄したようなもんですよ」(『毎日新聞』1984年1月7日)
 連載記事を担当した記者はこう語る。
    「東京湾の一連の埋め立てで陸(おか)に上がった元漁民に聞いてみると、みんな『漁を続けたかったが、海の汚染などで泣く泣く転業した。今でもやりたい』ともらす人が多かった。補償金をいっぱいもらって喜んで転業したというのは他人の勝手な推量で、持ち慣れぬ大金で逆に人生を狂わしてしまった漁民がずいぶんいたようだ」(同、1月14日)。


4.補償漁民の半数以上は漁業権放棄に反対
     〜ヤミに葬られた漁業補償金追跡調査結果〜
 こうした漁民の思いを実際に裏づけた調査結果がある。「千葉県における補償金追跡調査委員会」が1970年に発行した『漁業権放棄以後における補償漁民の生活変化と補償金の使途に関する調査報告書』だ。
 同調査は、海を離れた漁民たちのその後の生活を追跡するため、千葉日報社と県信漁連(千葉県信用漁業協同組合連合会)、千葉銀行などが委員会をつくり、故飯田朝・千葉大学教授らの調査団に委託してすすめられたものである。4漁協の旧漁民456世帯から聞き取りがされた。
 いくつかあげると、「漁業と現在の仕事でどちらが働きがいがあるか」という問いに対しては「漁業」69.7%、「現在の仕事」15.7%、「どちらともいえない」11.8%、である。「補償後の生活変化をどう感じているか」に対しては「苦しくなった」51.1%、「変わらない」26.1%。「収入が増え楽になった」17.5%。「漁業権放棄に対する態度」については「反対」52.5%、「賛成」32.5%、「保留」10.5%、「仕方がない」3.2%。「工場進出でよくなった面」に対しては、「なし」52.2%、「あり」39.2%、「不明」8.5%。「工場進出で悪くなった面」に対しては、「あり」89.5%、「なし」7.7%、「不明」2.6%──となっている。つまり、報告書では、「転業後の生活より漁業に従事した方が良かった」という実態が浮き彫りにされているのである(くわしくは、調査報告書を参照)。
 ところが、同報告書は公表されなかった。その理由について、調査団の一人は「なぜなのかはわからないが、ちょうど昭和46年の知事選を控えていた時期で、じゃまになってはまずいと判断されたのでは」(朝日新聞千葉支局編『追跡・湾岸開発』朝日新聞社)と言っている。
 また、飯田清悦郎氏は『欲望のコンビナート』(前出)の中で、同調査報告書は「巨怪な圧力によって地域住民のまえに公表されることなく、どこかにしまいこまれた」と述べ、調査にあたった飯田朝教授(前出)がこう語っていることを紹介している。
    「20余人の学生が、何十日も泊りこみで調べあげた調査の報告書が、行政側から出た結論と違うということでおクラ入りとなった。おクラ入りの背後に行政上の、あるいはもっと別の圧力の存在があったことは否定できない」
 同報告書は、県立中央図書館などごく一部のところに保存されているだけである。


5.漁民を食いものにした連中への復習を描く
     〜大藪春彦著『黒豹の鎮魂歌』〜
 大藪春彦のハードボイルド小説『黒豹の鎮魂歌』(徳間文庫)は、千葉の漁民を食いものにした連中への復習をテーマとしている。あらすじを紹介しよう。
 主人公・新城彰の実家は千葉の君津浜で漁業をやっていた。ノリとアサリと雑魚を相手の零細漁業だったが、毎日の暮らしに困るというほどではなかった。しかし、そこに巨大企業の九州製鉄が進出することを決めた。その経過を大藪はこう書いている。
    「昭和28年(1951年)の川鉄千葉製鉄所の進出をキッカケとし、京葉工業地帯への巨大企業の進出は、32年に三矢不動産が県に替わって埋立て工事費や漁業補償金を立替え払いする協定が出来てから、急ピッチとなった。漁民の海は次々と大企業に奪われていった。政財界に思いのままに動かされる県は、漁民たちに高圧的な態度でのぞんだ。昭和36年、マンモス企業九州製鉄も、どんなに公害を出しても県も町も文句を言わぬ京葉工業地帯に進出することを決めた」
 九州製鉄の進出は、新城一家に悲劇をもたらした。
 新城家が加入していた漁協の会長は、暴力団銀城会の千葉支部最高幹部の一人であり、県議会議員もしていた小野徳三(通称・小野徳)であった。小野徳は、九州製鉄から多額のリベートをもらい、漁業補償を法外に安く九州製鉄と県とのあいだで決めた。組合員の大半は反対したが、小野徳には銀城会の暴力というバックがついていた。しかも、組合員には小野徳から借金している者が少なくなかった。小野徳から、今後は九州製鉄の守衛や食堂の従業員として雇ってやるという約束をとりつけた、と言われると、反対の声は鎮まった。
新城の父も、ノリとアサリの漁業権放棄に対する補償金として100万円をもらった。しかし、小野徳のインチキ・バクチで補償金をすべてまきあげられたあげく、莫大な借金までを背負わされ、ついに妻と新城の2人の妹を道連れにして自殺した。彰も小野徳の子分たちに借金の返済をせまられ、半死半生の目にあわされる。
 ヨーロッパに逃げた彰は、一家の命を奪った連中へ復讐するため、射撃や拳法などの腕を磨く。帰国した新城彰は、まず、漁民たちを食いものにして国会議員にのしあがった小野徳への復讐を果たす。その際、小野徳にいろいろと白状させている。京葉工業地帯に進出してきた大企業と保守党政治家などが持ちつ持たれつの関係で荒稼ぎしていることなどである。その後、新城は利権をむさぼっている政治家やヤクザを次々と殺していく。
 以上があらすじである。読めばわかるように、“二足のワラジをはいた政治家”とよばれた浜田幸一氏、“財界の番頭”とか“開発大明神”とよばれた友納武人県知事、君津の埋め立て地に進出した新日本製鉄、千葉の埋め立てでボロ儲けし日本一の不動産会社に急成長した三井不動産などとみられる人物や大企業がぞくぞくと登場する。レジャー基地(東京ディズニーランド)にするという名目で県から払い下げられた埋め立て地の一部を、「三矢不動産」が住宅地として売りとばし200億円儲けたという話もでてくる。このほか、自民党の川島正次郎副総裁や田中角栄幹事長(後に首相)、岸首相、右翼の大ボス児玉誉士夫、政商小佐野賢治などとみられる人物も登場する。そして、フィクションの形で、千葉の埋め立て開発にからむ政財官のあくどい利権稼ぎや、日本の権力者たちの金権腐敗のカラクリと実態をえぐりだしている。


 おわりに

 1万2000ヘクタール以上におよぶ千葉の埋め立て開発は、大規模な自然破壊をひきおこすとともに、「川鉄公害」に代表されるようなさまざまな公害も生んだ。また、漁民を海から追い出した。さらに、「土地のないところに土地をつくる」ために、利権をねらって多数の政治屋や財界などがハゲタカのようにくらいついてきた。こうした大企業や国家権力の強大な力に屈し、多くの漁民は先祖伝来の漁業をむりやりやめさせられ、下請け労務者として工場へ狩り出された。生き甲斐を奪われ、ヤクザや詐欺師などのエジキとなり悲劇をとげた漁民も少なくなかった。
 今年6月、三番瀬埋め立て計画をめぐり、県企業庁が市川市行徳漁協に「転業準備資金」として43億円を迂回融資させ、その利息56億円を県が支出した問題で、埋め立てに反対する市民グループは、利息支出の返還などを求める訴えを千葉地方裁判所に起こした。融資は実質的に漁業補償にあたり、県企業庁が埋め立て免許をとらないまま補償するなどしたのは公有水面埋立法などに違反し、支出は違法──というのが提訴の理由である。まったくの正論である。
 これまでは、こうした本格的な行政訴訟がなかったために、大企業や利権政治屋と癒着した県がやりたい放題で埋め立てをすすめてきた。こうしたデタラメな開発行政にメスを入れるという点で、この訴訟は画期的な意義をもつ。今年秋にはじまる裁判の内容や行方がたいへん注目される。訴訟の原告団や弁護団、そして訴訟を支援する会などの奮闘に期待したい。

(2000年9月)   





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