住環境を破壊する東京外郭環状道路
〜外環道路に反対し、すみなれた町を守る〜
外環反対連絡会 高柳俊暢
●失われていく市川らしさの中で
市川市は、江戸川をはさんで東京都と隣接する位置にあります。これまでは、JR総武線で江戸川を渡ると、下総台地の西端部にあたる国府台の斜面の緑が目に入り、街の中にも急に緑が目立つにようになると言われてきました。特に、JRの北側沿線の住宅地はクロマツが多く残り、この地域が、かつて「市川砂州」と呼ばれた地域を示す独特な風景を形成し、市民にとっては「市川らしさ」の象徴でした。しかし、最近では高いビルやマンションが目立つようになり、視界が遮(さえぎ)られるだけでなく、大気汚染で国府台の斜面の緑も霞(かす)んでしか見えなくなってきました。
喘息だったり、のどの調子が始終おかしいという人も増えています。市の教育委員会が毎年4月に行っている保護者アンケートでは、小学生の約6%、中学生の4%近くに喘息(ぜんそく)の症状があることがわかっています。これは20年前のほぼ3倍で、川崎市などとほぼ同じ傾向です。
このような市川市の環境悪化の現状を決定的にし、取り返しのつかない状況を招くものが外環道路(東京外郭環状道路)計画です。
●外環道路計画を知っていますか
外環道路は、都心から15キロの環状道路で、東名、中央、関越、東北、常磐といった首都圏の放射状の高速道路をつなぎ、湾岸道(東関東道)に接続する大型の高速道路計画です。道路幅は、標準で60メートルから80メートル、高速部分が4車線、一般国道(国道298号)部分が4車線、さらに地域のサービスのためと称した側道が2車線あります。
この道路が、市川市内の10キロ、松戸市内の2.1キロを縦断します。市川市内では、既存の湾岸道、京葉道、そして新規に計画されている北千葉道路という3本の高速道路との間でジャンクションが造られますし、インターチェンジ (高速部と一般道路との相互乗り入れの場所)も4力所できます。国道14号や国道6号との間には大規模な交差点もできます。計画路線は住宅の密集する地域で、学校などの教育施設も多く、道路ができた場合の影響は計り知れません。
●事前に住民に計画が知らされていれば
政府は、東名と名神という東京と大阪をつなぐ高速道路ができたことに続き、日本列島を縦断する高速道路や、それらをつなぐ横断方向や環状方向など、国土の幹線となる高速道路計画を進めました。そのために、1966(昭和41)年、それまでの国土開発縦貫自動車道路建設法を改めて「国土開発幹線自動車専用道路法」という法律をつくりました。そして、2年後の1968年(昭和43年)の第二次全国総合開発計画までに全国の根幹的な高速道路計画が決められ、次々に都市計画決定されていきます。この時、前記のような首都圏から放射状に出ていく高速道路や、大阪からさらに西へ伸びる中国縦貫道などとともに、外環道路計画が決められました。
東名や中央など東京の西側の高速道路の建設が先行していたため、外環道路のうち西側の東京都部分の都市計画決定が先行し(1966年)、千葉県と埼玉県部分の計画決定は1969(昭和44)年でした。
しかし、当時の都市計画決定は大正7年以来の旧法と呼ばれるもので、現在以上に住民の知らないところで計画が進められ、計画決定になるまでは、住民にはいっさい何も知らされませんでした(現在では、少なくとも計画決定前の住民説明会や環境影響評価の段階では住民も計画内容を知りますが、そうしたことさえ行われませんでした)。その後、計画を知った住民の運動の高まりで、自治体ぐるみでの反対運動となったことを考えると、「もし計画段階で住民が計画を知ることができたら、計画は必ず止めることができたはず」と、多くの住民が考えています。
その後の長い反対運動を考えると、住民にとつて情報公開がいかに重要かを痛感されます。計画決定時点でのボタンのかけ違いでした。
●自治体をまきこんだ長い反対運動の歴史
住民が計画内容を知ったのは、1970(昭和45)年の後半になってからです。松戸市内で立ち入り測量を実施することになり、説明会が行われたことがきっかけです。この時期は、高度経済成長のひずみが日本中に吹き出し、「公害列島」という言葉が生まれた時期で、道路では、環七沿道の惨たんたる状況や、光化学スモッグや交差点の鉛汚染の実態などが連日、ニュースで報じられていました。ところが、なんと、外環道路は松戸から市川にかけての住宅の密集した地域を縦断する計画でした。
この計画で、大勢の住民が住み慣れた土地を立ち退かされ、残った人たちも地域が分断され、騒音や大気汚染などたいへんな公害をもたらされることを住民は心配しました。これに対して、説明にあたった建設省の担当者は、「この道路はすでに都市計画決定されており、建設省の直轄事業として事業化することがもう決まっている」「立ち退きの対象となる住民のみなさんにはたいへん申し訳ないが、御理解をお願いしたい」「道路をつくっても、騒音や大気汚染の環境基準は守れる」などと一方的に述べ、住民の疑問には何も答えないまま、「昭和60(1975)年の完成をめざしている」と告げました。
こうして事の重大さを知った住民は、「今からでは、もう間に合わないのでは」という不安な気持ちに駆られながらも、それぞれの地域で反対運動に立ちあがりました。そして、運動はたちまち市川市、松戸市内の計画路線沿線全域に広がり、市川、松戸の市議会や県議会でも計画反対の請願が採択されるまでになりました(1973年)。その結果、1975(昭和50)年に「計画の見直し」を公約して知事となった川上知事は、「外環道路のルートと構造の再検討」を建設大臣に要請しました。
これに対して、建設省は1977年に、それまで高架構造であった高速部を1部半地下スリット構造とする構造変更案を千葉県に提示します。しかし、住民は計画の撤回を求め、12万3841名の署名を提出、市川市長や市川市議会も横造変更案の返上を主張したため、知事もこれを返上せざるを得ませんでした(1978年)。
その後、千葉県内の外環計画は、松戸市が江戸川に架かる葛飾橋の交通緩和を理由に建設を望んだ一般部の江戸川架橋を除いて凍結状態となり、建設省は埼玉県内の事業の推進に専念します。この間、市川市では、住民の働きかけで、住民と議会、市当局の三者による協議会が設けられ、自治体をまきこんだ反対運動が展開されたことは特筆されます。市内には「外環反対・市川市」の看板が出され、住民が主導して2度にわたり外環道路の影響を報告書の形でまとめ、市川市の名前で関係機関に提出したり、広報で市民に知らせたりしました。また1981年には、住民の反対運動を中心にまとめた「外環反対運動10年の記録」も市川市、市議会、住民組織の連名で発行しています。
●東京湾横断道着工を契機に、建設省が働きかけを再開
千葉県内の外環計画が再び動き出すのは、東京湾横断道路の着工が契機です。1985年、横断道路の着工が決まったことに伴い、千葉県は関連道路の整備計画を立てますが、これには建設省の協力が不可欠でした。これに乗じて、建設省は外環計画の事業化を強力に働きかけます。特に自民党の千葉県連に働きかけ、千葉県議会は「外環問題の進展」を自民党単独で決議します。そして、建設省はこれに応える形で、1977年に示した半地下スリット横造を基本とする構造変更案を再び1987年に県に提示しました。
10年前との違いは、高速部分の半地下スリットとなる区間が多少延長されたことと、「幹線となる高速道路には緩衝緑地帯や地域サービス道路などを併設するという」道路構造令の改正で、標準で40〜80メートルだった道路幅が、最初に述べたように60〜80メートルに広げられたことでした。
この案を建設省から提示を受けた沼田現知事は、「環境に配慮した案である」として、市川市、松戸市にこの案の受け入れを検討するよう求めます。すでに江戸川架橋など国道6号線以北の一般国道部分の建設に同意していた松戸市は、ほとんど検討らしい検討もせずに受け入れを表明しました。市川市は、「白紙の立場で検討する」として庁内に協議会をつくる1方、市議会にも特別委員会を設置して「検討する」という形をつくりました。
●市川市も受け入れへ
市川市における検討は1993年まで6年間続き、この間には、関係住民や団体を対象にした公聴会も開催されました。こうした場での住民の声は、「反対」が圧倒的でした。そして市議会の特別委員会の審議でも、最初は連設省案の受け入れは難しいという雰囲気でした。
高速道路が緩衝緑地帯を持つことは、道路だけの部分をみれば多少の改善になるかもしれません。しかし、住民や市川市が外環道路に反対していた第1の理由は、立ち退き住民の多さにありました。道路計画が市の中心部を縦断するため、道路幅が広げられる前でも市川市内で立ち退き戸数が1400もありましたが、道路幅が広げられたことで立ち退き戸数は一挙に2000戸を超える戸数になりました。外環本線の建設に伴う接続道路整備の部分を含めると2700戸にもなることが、委員会では報告されました。同じ理由で、地域分断もそれまでより深刻で、17の自治会、4つの商店会、小学校の学区が8学区、中学校の学区が6学区分断され、既存の生活道路77本が高速道路による遮断で行き来できなくなることなどが報告されました。
そのため、構造変更案がこうしたマイナス面を大きく超えるような環境面での改善があるのかが、検討の焦点になりました。このため、市川市は、独自の予算で構造変更案で騒音や振動、大気汚染がどの程度になるかの調査を民間の調査機関に依頼しました。その結果、騒音や振動では多少の改善になるものの、大気汚染は高速部が高架の場合より汚染物質の拡散が悪く、道路周辺ではかえって汚染がひどくなるという結論になりました。結局、「建毀省案は問題を解決しない」ということになったのです。
市川市はこの段階で建設省案を返上すべきでした。しかし、特別委員会での検討は、その後、「建設省案を返上することは簡単だが、それでは問題の解決が先延ばしになるだけである」「埼玉部分の外環ができ、松戸市も計画を受け入れれば、今でさえ交通事情の悪い市川市内にクルマが増えることになる」という思わぬ方向に展開してしまいました。ひとたびそうした方向に委員会の雰囲気が向かうと、「外環を受け入れた方が下水道や京成線の立体化など、懸案となっている都市計画事業が円滑に進む」とか「外環建設を受け入れれば、建設省が市内の道路整備に協力してくれる」といった議論が力を得て、1993(平成5)年、一気に計画受け入れという結論に向かいました。もちろん、この裏には、建設省の強い働きかけや、湾岸地域の企業、そして、下請けまで動員したゼネコンと呼ばれる大手建設会社による促進運動などがありました。
●県環境影響評価審査会も強く懸念表明
市川市が計画受け入れを決めたことで、千葉県は建設省案にもとづいて1994年から都市計画の変更手続きに入り、1997年の12月に変更決定がなされました。住民説明会は原案段階と正式な都市計画案の段階(内容は同じものですが)で2回行われ、市川市内で、6ケ所、松戸市内2力所の会場で延べ6000名もの住民が出席しました。全国的に見ても例を見ない数で、いかに外環に関係する住民の数が多いかを改めて示すものです。そして、出席した住民から出された声は、計画に対する疑問や反対が圧倒的でした。
都市計画変更の手続きにあわせて、環境影響評価も行われました。もちろん、その結論は「道路を造っても環境は守れる」というものでしたが、これには、住民だけでなく知事の諮問機関で、大気、騒音、自然環境などの専門家で構成される千葉県環境影響評価審査会からも強い懸念が表明されました。
答申では、交通量やクルマ1台あたりの汚染排出量などの予測条件の設定をはじめ、バックグラウンド濃度の取り方や予測地点の選び方にも疑問が呈示されました。そして、予測に模型実験や既存の類似道路での野外調査をとりいれ、予測方法を改善して予測精度を上げるべきだという指摘や、周辺のまとまった緑地は生懸系全体としての影響が考慮されるべきだという指摘があり、さらに大気汚染や騒音の予測値が保全目標値である環境基準ぎりぎりでは長期的にみて環境保全が図られるとは言えないと、予測値の評価のあり方にも不備が指摘されました。
これらに加え、例えば市川市内の住宅地を特長づけているクロマツについては、「クロマツとの抵触を極力避け、やむを得ず抵触する場合は、もとの位置に、もとの形に復元するように」と述べるなど、計画内容に見直しを求めるものでした。
県は、建毀省の圧力に屈し、この答申を無視して都市計画変更決定を強行しましたが、審査会の答申によつて、現状の計画や環境対策が不備であることが公式に示されたことになり、知事も県議会で「環境影響評価の段階で指摘を受けた環境面での問題は、今後、県が国や地元市との間で調整機関をつくり、検討していく」と答弁し、住民にとっては、都市計画変更決定後も建設省や千葉県などに環境影響評価のやり直しを求める根拠になっています。
●外環道路反対運動が果たしてきた役割
外環反対の住民運動は、自らの生活の場を守り、自分や子供たちの健康を守りたいという、素朴な気持ちから始まったもので、現在では計画が事業化進められつつあるという厳しい現実はあるものの、例えば湾岸道路と同時期に計画決定された道路が今日まで長く建設されないできたという事実は、住民にとって大きな成果です。
しかし、これまで30年近くにもわたる運動の成果はこれだけにとまらないと私は思います。例えば、この道路の反対運動がきっかけになって、市川市内ではさまざまな住民運動が起こり、その結果、宅地開発から緑地を守ったり、市の土地利用計画を大きく変えさせたりする力となりました。
そして、湾岸地域と内陸部を結ぶ巨大な幹線高速道路である外環道路に長く県議会まで反対となっていたことは、千葉県の湾岸開発を多少とも抑制する役割も果たしたと思います。実際、京葉港開発協議会など湾岸地域の企業からは何回となく外環促進の運動が繰り返されてきています。もしも反対運動がこうした力に屈し、外環道路ができていたら、京葉港二期計画などはもっと早い時期に具体化し、今日のような三番瀬の保全運動の高まりはまにあわなかったかもしれません。外環道路が建設されないでいるために、外環が湾岸道路に取り付くジャンクション予定地付近は荒涼とした市街化調整地域のままです。こうした地域を生かして埋立地を再開発すれば、湾岸地域にかつての湿地を回復することも今なら可能です。
現在(1998年3月段階)、外環道路の用地は、市川市、松戸市あわせて54%が建設省に取得され、「もうここまできたら、早く道路をつくる以外にない」というのが千葉光行市長の議会での発言です。これに同調する人も少なからずいるかも知れません。しかし、それは外環道路という道路計画をよく理解していない人たちで、湾岸地域と内陸部を結び、1日の交通量が10万台を超えるのは確実という高速道路を市内の中心部に通すことの無謀さをよく考えるべきです。
外環道路には、市川市内の15本もの都市計画道路が接続します。そうなれば、市内の交通緩和が図られるどころか、こうした接続道路は外環へのアクセス道路となり、市内に大量のクルマを呼び込むことはまちがいありません。開発を目的とした区画整理などにも拍車がかかり、市内の土地利用の変化もますます進むことになります。
確かに市川市内の道路状況は劣悪だと言われ、朝夕の通勤時間帯を中心に交通渋滞が絶えません。しかし、これは、「埼玉で外環ができているのに市川市だけが反対したため」ではなく、船橋市でも柏市でもどこでも共通の課題で、自動車利用のあり方や公共交通のあり方を見直さないかぎり解決しません。
私は、今でも外環道路計画はやめるべきだと考えます。そして、建設省が取得した用地は、公園にしたり、既存の道路の歩道整備に振り替えたりという地域住民のための町づくりに利用すべきだと考えています。そのために、市川の全市民が立ち上がってほしいと願っています。
(1998年11月)
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